知ってるつもり: 無知の科学

知ってるつもり: 無知の科学

著者:スティーブン・スローマン , フィリップ・ファーンバック

自転車の仕組みを説明できると思いこむ。
政治に対して極端な意見を持つ人ほど政策の中身を理解していない 。
私たちはなぜ自分の知識を過大評価するのか?
その一方で、人類が高度な文明社会を営めるのはなぜか?
気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで、各分野の研究を駆使して知性の本質に迫る。
「賢さ」の定義をアップデートし、各界からの絶賛を浴びた、デマが氾濫する現代の必読書。

まずは気になったところの抜粋です。

 

思考の性質として、入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用できるようにできている。私たちが知識の錯覚の中に生きているのは、自らの頭の内と外にある知識の間に明確な線引きができないためだ。それができないのは、そもそも明確な線など存在しないためである。だから自分が知らないことを知らない、ということが往々にしてある。意識をこのように理解することで、私たちは日々直面するきわめて複雑な問題にもっとうまく対処できるようになる。自らの理解の限界を認識すれば、もっと謙虚になり、他の人々のアイデアや考え方に素直に耳を傾けられるようになる。(p.24)

説明深度の錯覚:それまでは知っているつもりでも説明しようとすると自分の理解度が低いことに気づくとのことです。これ確かにそうで、逆に考えると理解できているかを確認するためには説明できるかを試してみるということになりますね。

私たちは自分の知識を過大評価する。つまり自分で思っているより無知なのだ。(p.35)
ナッジという手法から学ぶべき教訓は、個人を変えるより、環境を変えるほうが簡単で効果的であるということだ。また認知にはどのような癖があり、それによってどんな行動が引き起こされるかを理解できれば、そうした癖がマイナスではなくプラスに作用するように環境を設計することができる。(pp.270-274)
教訓① かみ砕く
教訓② 意思決定のための単純なルールを作る
教訓③ ジャスト・イン・タイム教育
教訓④ 自分の理解度を確認する
学者が自らの思想にそぐわない新たな発想と出会うと、たいてい3つの反応が連続して起こる。まず否定する。次に拒絶する。そして最後にわかりきったことだと主張する。世界観を揺るがすような発想に出会うと、まず無視しようとする。時間をかけ、わざわざ考える価値のないものだと思い込もうとする。それがうまくいかないとき、たとえばコミュニティからその発想と向き合えという圧力がかかると、拒絶する理由をひねり出す。学者は、新たな発想を否定する理由を考えるのが恐ろしく得意だ。ただ最終的にそのアイデアが否定できないほどすばらしく、コミュニティに定着すると、そんなものは自明であり、正しいことは最初からわかっていたと主張する理由を見つける。(p.275)
専門能力があるというのはスキルがあるだけでなく、スキルがあるとはどういうことかを知っていることを意味する。無知であるというのは、スキルも知識もないことだ。(p.278)

ざっと、引用はこんなところですが、いろいろと学びや気づきがありました。最近思っていることですが、ただでさえインターネットの検索エンジンの精度があがり、求めている情報にショートカットでたどり着けるようになりましたが、生成AIにより答え(らしきもの)をすぐに作ってくれるようになりました。

ますます検索上手、AI使い上手が台頭してきて、「知ってるつもり」の人が増えてくると思います。それはそれで価値があると思うのですが、それこそAIに乗っ取られる領域なので視座を変えて自分のスキル・知識を蓄えていく必要があると考えています。

生産性は格段に上がっていると思うのですが、ゼロから1を作ることのできる能力は個人的には、自分で情報を地道に探し、脳みそに汗をかきながら考えに考えて答えを出すという行為の積み重ねからできるものだと思っています。

そこからも「知ってるつもり」にならずに、どれだけ無知であると意識し続けられるか、無知だと意識し続けていたいと改めて思いました。

ちなみに、先日ご紹介したダニング・クルーガー効果もp.278に紹介されていました。

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