自分で考える練習 毎日の悩みを解決できる「哲学思考」
著者:平原 卓
内容紹介 世界の哲学者たちが考え抜いた「答え」と「その考え方」、すべて教えます 「0→1」を作るために知っておきたい哲学2500年の叡智が教える“思考のワザ”とは? 内容(「BOOK」データベースより) |
★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯]
[目的・質問]
[分類] 130: 西洋哲学
古代から現代への過程のうちで、哲学では、不変の「正解」が用意されているという考え方が、次第に薄れていきました。
哲学の歴史は、究極の答えに近づいていくどころか、反対に、そうした不変の「正解」が存在しないことを明らかにしていくプロセスだったのです。(p.16) |
私たちは、近代哲学を切り開いたデカルトに倣って、「現代の方法序説」を作っていかなければなりません。そのためには、哲学の歴史を、考えるための哲学史として読み直し、概念や構想を考えるための方法として読み解くことが必要となります。なぜなら哲学の歴史は、失望を受け止め、可能性を創り出す方法を編み出してきたプロセスそれ自体にほかならないからです。(p.21) |
哲学にとって重要な課題は、時代における根本の問題をつかみ、それに対する解答を、原理の形で示すことにあります。この観点から、哲学者たちは、世界についての共通了解を一層深めようと努力してきたのです。この努力を根本で支えている理念は、普遍性です。普遍性というと、もしかしたら個人を否定して全体を尊重するものであるかのように思えるかもしれません。しかし、近代哲学によって、そうした普遍性の概念は刷新されます。・・・普遍性は、決して具体的なゴール、終わりを意味しません。それは共通理解が常に吟味され、必要に応じて推し進められねばならないという、哲学の在り方そのものに関わる概念です。普遍性とは、そうした目標として、哲学が自分自身に課す態度にほかなりません。(pp.28-29) |
この「普遍性」ということでいうと、哲学だけでなく科学においても同じことが言えますね。
哲学の歴史を確認していくとき、私たちはつい、導かれた答えのほうばかりに目が行ってしまいます。しかし、それと同様に重要なことは、なぜ彼らがその問題に取り組み、そのような答えを置くに至ったかということです。・・・重要なのは、その問題が私たちにとって、どれだけか考えるに値する切実な問題なのかということです。多様な価値観が存在する現代において、その切実性を見定めることは決して容易ではありません。しかしそれは、哲学の営みによとっては、重要な意味を持ちます。なぜなら、切実な問題にこそ、私たちは取り組む意欲を向けることができるからです。(pp.30-31) |
「問い」の与え方ということもできるでしょうか。その「問い」にどう気づけるかがポイントなのでしょう。
世界観の対立が起こらないように予防したうえで、意味や価値について、相互に納得を深めていくような考え方はないのでしょうか。この問題について説得力のある考え方を示したのが、現象学を創始したフッサールです。その考え方とは、還元と、それに基づく本質観取です。この2つを組み合わせることで、フッサールは、概念による普遍的な共通了解という、近代哲学が導いた可能性を真に実現することができると考えたのです。
還元とは、いかなる前提も置かず、一切を「私」の意識のうちに置き戻し、意識を内省することで、事柄の”像”を成り立たせている根拠を見て取ろうとすることをいいます。これは言い換えると、あらかじめ「答え」が用意されており、それを正しく見て取ることができれば正解であるという構図をストップし、「私」の意識にとって現れている像を支えている根拠を見て取るということです。 本質観取は、こうした還元の態度を前提に、「私」の世界観、価値観のうちから、誰にとっても当てはまるであろう本質的なものをピックアップして相互に表現し、共通項を確認していく営みのことです。(pp.32-34) |
以上をまとめると、還元と本質観取の営みは、次のように言い換えることができるようです。
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主観と客観の一致が証明できないことが自覚されると、一切の認識は「ひとそれぞれ」にすぎない、という実感が芽生えてきます。その実感のもとでは、普遍的な知を作ろうという意志はそがれてしまいます。認識問題の解決は、意味や価値についての学問を打ち立てるにあたって、決定的に重要となる課題なのです。この問題に対して、フッサールは、「正解」を問う態度から、「了解」を創り出す態度へと態度変更を行うことで、この問題を解決することができる、と考えます。その際、フッサールが打ち出す方法が、先ほど確認した還元と呼ばれるものです。(pp.35-36) |
還元と本質観取のポイントをについて、まとめておくと次にようになります。(p.39)
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哲学の歴史をたどることの一つの目的は、もちろん、哲学者たちが示した考え方を確認することにあります。ただ、哲学者たちの考え方を習い覚えたところで、そう意味があるわけではありません。大事なのは、哲学の歴史から、哲学がどのように営まれてきたのかについての「型」を取り出すことです。そうすることで、哲学の歴史を、私たちの問題に対して、私たち自身の答えを創り出していくための参照項として用いることができるはずです。(p.45) |
哲学に限らず、「歴史」を学ぶということは、「型」を学ぶということになるでしょうし、さまざまな「型」を自分の引き出しに収めていくことでそれが自分の血肉になっていくことでしょう。
ソクラテスは、哲学の歴史上初めて、「善そのものとは何か?」という問いを立てました。「よい」とされる様々な事柄に共通する核心を見て取ることで、初めて、それまでの生き方を真に「よい」生き方へと向きかえることができると考えられたのです。「私」の生き方を吟味し、編みかえるために、善そのものは何か、と問う。これは、それまで存在したことのない、新しい問いの立て方となったのです。(p.48) |
プラトンの弟子のアリストテレスは、善をイデアと見なすのではなく、[目指されるべき目的として働く原因]として規定しなおします。そのうえで、世界は根本原因によって支えられる原因と結果の体系である、と論じました。
アリストテレスは、ある事柄には、その原因があり、その原因にも原因がある。こうして、「結果」と「原因」の連鎖をさかのぼっていくと、[第一の原因]があることが分かる。それは、何によっても動かされずに、ただ他の原因を動かすだけの原因である。この[第一の原因]が、世界全体の原動力として働いているのだ。そうアリストテレスは考えます。(p.51) |
プラトンは、世界がもつ価値の側面を描き、アリストテレスは、事実の側面を描きました。世界にはそうした二重の性質があることを、プラトンとアリストテレスは、合わせて洞察したのです。
近代哲学は、デカルトとホッブズによって始められました。彼らは、哲学の根本問題を次のような形で示します。
「認識の正しさの根拠はどこにあるか?」 中世では、この二つに対する答えは、ともに神に置かれました。何が真理であるかは、神の恩恵によって認識でき、その真理は、カトリック教会のみが正しく把握することができる。これが中世ヨーロッパにおける正統な世界観でした。しかし、宗教対立と宗教戦争を経て、この世界観が根本的に疑わしいものとなってしまったのです。 「神が世界の根本原理でないとすれば、一体、何が真と善の根拠となるのか?」 デカルトとホッブズは、この問題に正面から取り組み、近代哲学の二つの分野を切り開きました。一つは認識論、もう一つは社会哲学です。さしあたりここでは、認識論を「普遍的な認識の条件を明らかにする営み」として、社会哲学を「誰もが等しく自由である社会の原理を構想する営み」として規定しておきます。(pp.64-65) |
このあともこのような感じで非常にわかりやすく説明がされています。「哲学の歴史」から「考え方」の型を学ぶことができる良書です。
哲学入門としては、平原先生の前著がお勧めです。
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