株式会社の終焉

株式会社の終焉

株式会社の終焉
著者:水野 和夫

内容紹介
水野史観、炸裂! 大ベストベストセラー『資本主義の終焉と世界の危機』を継ぐ著者渾身の書き下ろし!
21世紀に株式会社の未来はあるか?
ビジネスマン必読 2016年最大の問題作!証券チーフエコノミスト時代に上梓した処女作『100年デフレ―21世紀はバブル多発型物価下落の時代』(日本経済新聞社、2003年)に始まって、
『人はグローバル経済の本質をなぜ見誤るのか』(日本経済新聞出版社、2007年)、『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』(同、2011年)、
そしてベストセラー『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2013年)と、一貫して、資本主義の限界と、にもかかわらず続く「成長信仰宗教」批判してきた著者の最新作。
まさにその系譜を継ぐ渾身の書き下ろしです。「長い16世紀」の後の近代資本主義とそれを担う近代株式会社の誕生から現代まで、その歴史を紐解きつつ、必然としての現在の資本主義の終焉と、
それに伴い、株式会社、厳密にいえば、現金配当をしている株式会社に、残されている時間はあまりないことを、
頻発する企業の不祥事や格差の拡大、国家債務の拡大、人口減少等の各国に共通する課題にも触れつつ、丁寧に述べていく。

では、どうするのか? 本書の新しさは、その一つの方向性を示していることにもある。
まさに、著者新境地の力作である。

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 新聞の書評欄で見て、是非読んでん見ようと思いました。
[目的・質問] 現代システムの崩壊か?水野さんの問題意識を共有し、消化したいと思います。
[分類] 335.4:私企業.会社, 商事会社

EUはそもそも、ヴィルヘルム1世に忠実に使えたビスマルクが、フランスで起きた市民革命はヨーロッパ全体にとって今後避けられないことだと認識したうえで、君主制維持に腐心したことがその基盤となっています。ビスマルクが時代を読み違えていれば、今のドイツ中心のEUはなかったわけです。(p.3)

市民革命:市民革命(しみんかくめい、ブルジョワ革命、民主主義革命)とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく、人権、政治参加権あるいは経済的自由を主張した「市民」が主体となって推し進めた革命と定義される。代表的なものは、イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命などである。(Wikipediaより)

ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝):ヴィルヘルム1世(Wilhelm I. 1797年3月22日 – 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 – 1888年3月9日)、北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 – 1871年1月18日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 – 1888年3月9日)。
第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。兄である第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に子供がなかったため、1861年の兄王の崩御でプロイセン王に即位した。軍制改革をめぐって衆議院との対立が深まる中の1862年にオットー・フォン・ビスマルクを首相(ドイツ語版)に任じ、軍制改革を無予算統治で断行。ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年の普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも、崩御まで彼を首相として重用し続けた。(Wikipediaより)

最も避けなければならないのは、時代の歯車に歯向かったり、歯車を逆回転させたりすることができると思ってしまうことです。現在の21世紀は、成長の積み重ねの上にあるわけではありません。成長を目指せば目指すほど、21世紀の潮流とずれてしまうのです。これから70年の間で、22世紀の勝負はついていることを認識することが最も重要です。(p.4)

政治家たちなんて、次の選挙のことしか考えていないのに、なんと・・・22世紀のことを考えながら行動しなければならないと・・・・。どういう意識を持てばいいのだろう・・・・。地球人として、アジア人として、日本人として・・・自分の家族、子供たち、、、そんな先となると、上位レベルでないとなかなか考えられませんが、いずれにしても今日の決断の積み重ねが22世紀のポジションへ影響していることについて、イメージを持つことができました。

従来、「株価」と「利子率(金利)」はどちらも、景気の尺度でした。企業利益の増加は雇用者所得の増加を伴っていたからです。ところが、21世紀になると、この関係が断ち切られ、雇用者所得が減ろうが減るまいが利益だけが増加巣量になって、「株価」はいわば「資本帝国」のパフォーマンスを表す尺度へと大きく変貌しました。一方、「利子率」は、人類5000年の歴史を通じて、「蒐集(しゅうしゅう)」の尺度です。・・・秩序が維持されているほど利子率が低いことは、中世で最も栄華を極めたイタリア、近代覇権国のオランダ、イギリス、米国、そして経済大国の日本、ドイツを見れば明らかです。近代においては「利子率」は、国民の生活水準の良し悪しを表す「国民国家」の尺度であり、理想はゼロ金利なのです。(p.12)

では、現在の日本のマイナス金利は何を表してるのでしょうか?

資本を含めたあらゆる蒐集は必ず「過剰、飽満、過多」に行きつきます。蒐集の尺度である利子率がマイナスになったということは、いよいよその限界が近いことの表れです。(p.12)
「資本帝国」においては、雇用者所得を減少させることで株高を維持し、資本の自己増殖に励むことになります。資本蓄積の表す自己資本利益率(ROE)は2001年度をボトムに上昇傾向に転じたのに対して、家計の純資産蓄積率は21世紀に入って、いっそう低下傾向を強めていきました。・・・一人当たり実質賃金は1997年1-3月期をピークに、最新の2016年4-6月期にいたるまで、年率0.8%で減少しています。(pp.13-15)

これはどうなんだろう?そのまま受け取っていいのだろう?平均年齢が下がっていて年齢別の平均違いは下がっていないが、年齢のシェアが下に下がってきたということはないのだろう?

もはや株価や利子率は景気の体温計ではありません。国民と国家が一体化していた国民国家の時代においては両者は景気の体温計でした。企業サイドから見ても家計サイドから見てもそれはコインの裏と表であって、見ている対象はどちらも「国民国家」の経済でした。しかし、21世紀になると、資本家が、ヒト、モノ、おカネを国境を自由に超えて移せる手段を手にしたことで、株価は世界の企業利益を映す鏡となり、利子率は国境で分断された国民の所得を映すようになったのです。(p.17)

政府のROE8%超の要請ににより、何が起こったか・・・人件費カットで利益の捻出することになった。その利益はどうなったか?

1998年度から2014年度の「失われた20年」の後期になると、大企業の付加価値は11.1兆円増加し、うち営業純益17.5兆円増に対して、人件費は2.6兆円減少しました。日本の「資本帝国」化を押し進めたのは、1990年代から世界中で猛威をふるったグローバリゼーションです。外国の労働者との競争を名目に賃下げが行われたのです。(pp.19-20)
2002年度から2014年度までの累計逸失利益、つまり本来雇用者が受け取るはずだった利益の累計は、大企業だけで43.7兆円にも達します。1991年度から1999年度までの「失われた10年」で、人件費が固定費だった時に人件費に過大に支払われた10.0兆円を控除して計算しても、33.7兆円です。では、そのお金はどこに行ったのか?ピケティの表現を借りれば、株主や経営者が「レジに手を突っ込んで」不当に得た、ということになります。(pp.22-23)

言われてみれば確かにそうで、このあたりが日経平均株価は上がっていても生活実感として良くなっているというものはまったくありません。逆に苦しくなっている感もあります。そして、アベノミクスは成功しているというふうにメディアもこぞって言っていますが、実際は株主や経営者がよくなっているだけで、まさに二極化の格差がますます広がっている気がしますが。

この20年間で実質賃金は14.2%減少したのですが、そのうち6割は、正規から非正規雇用へのシフトによるものだと推察できます。そして、それは、1995年5月に日経連(現経団連)が出した報告書に原因があるといえるのです。(p.24)

さらに、経団連は2005年6月に「ホワイトカラーエグゼンプションに関する提言」を公表して、それを400万円以上の人へ適用することを提案。さらなる人件費削減を呼びかけ、経済産業省は企業に「稼ぐ力」の強化を要求。

たしかに、政府、財界が「資本国家」の視点を持っているのであれば、「稼ぐ力」は資本が自己増殖するために必要とされます。しかしながら、政府、経産省、そして財界に決定的に欠けている視点があります。それは、「国民国家」の視点です。この視点からみれば、「稼ぐ力」は国民があれもこれも欲しいといっている場合には必要ですが、モノ余りになったときに必要とされるのは、「何が適正なのか、それを考える力」です。(p.26)
フリードマンが考えた新貨幣数量説が成り立つ世界は、21世紀にはもはやどこにも存在しないのです。閉鎖経済で国民国家経済が各々独立的に存在していた世界が消滅し、世界経済が一つになったことで、一国のベースマネーを増やしたところで、物価が上がることはなくなったのです。世界の供給力が圧倒的に高くなって、貨幣数量説が想定する完全雇用の世界は存在しませんし、中央銀行が量的緩和で増やしたマネーストックは「電子・金融空間」に流れるのですから、単純に【貨幣数量(マネーストック)M】→【一般物価指数P】の連関が働いて財・サービス価格が上昇することにはならないのです。(p.41)
株価を重視する場合には、トリクルダウン理論、つまり「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる」が成立していることが前提です。それがあれば、一応、株高政策にも国民国家の経済政策として認めることができます。しかし、20年近くにわたって一人当たり賃金が減少しているのです。非正規社員であっても雇用者が増えたからアベノミクスは成功している、との見方もありますが、非正規社員の雇用が増えているのは、少しでも家計を楽にしたいがために夫婦二人で働いているから、というのが実情です。(pp.67-68)

実際に、2人以上の勤労者世帯の貯蓄残高(中央値)は2002年の817万円から2015年の761万円へと減少していて、少なくとも半分以上は金融資産を減らしているということになり、トリクルダウンは生じておらず、円安・株高政策を採用するアベノミクスは「資本帝国」の政策だと著者は言います。

これは難しいですね。女性の社会進出が進み、労働者自体が増え、しかも業務の効率化が進む中、生産が自体が増えないと仕事量を分け合う形になって致し方ない・・・となると、結局やはりGDPを増やすということになるのでしょうか。

帝国には必ず「中心」があります。現在の資本帝国の「中心」はウォール街です。だから、NYダウはリーマンショック前の高値を超えて、史上最高値を更新中なのです。利子率が近代国家の「地理的・物理空間」に立脚する国民国家の「経済」をみるものであるならば、マイナス金利は近代の終わりの象徴です。その「近代」の次に来るもの、すなわち、ポスト近代の有力な方向を示唆するものとして、株価を指標にするのなら、21世紀は「資本帝国」の幕開けだということになります。「電子・金融空間」をホームグラウンドとする資本帝国です。資本帝国の時代における株式会社は、ますます利潤極大化を目指して、資本蓄積に励むことになります。そして、資本帝国の時代の株式会社は、かつてのイギリス東インド会社がそうであったように、国家を凌ぐ権力を手にすることでしょう。(pp.69-70)

トリクルダウンなどありえず、資本帝国で生き残るためには、少しでも上澄みでいようと、勝者は際限ない富の蓄積に走り、貧しい者はますます貧しくなっていく・・・そんな図式になっていくのでしょうか。

歴史家のE.H.カーは『歴史とは何か』で、「歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にある」(1962)と述べています。これについて、翻訳にあたった清水幾太郎は、そのはしがきで、次のように解説しています。
「時々刻々、現在が未来に食い込みにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じて行く。(略)しかし、遺憾ながら、現代の新しさを雄弁に説く人々の、過去を見る眼が新しくなっていることは極めて稀である。過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めないであろう」(p.76)

これはここのところ、よく考えさせられます。E.H.カーについては一度、しっかり読んでみたいと思います。

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組織の形態は、時代によって大きく変わってきました。その一つにすぎなかった株式会社が栄華を極めているのは、「蒸気の結合」の時代、巨額の資本の調達に迫られた企業や高いリターンを求める資本家に株式会社という形態が選ばれて以来、たかだか、ここ150年間ほどのことです。株式会社は「無限空間」を前提として初めて利潤極大化が可能なのですが、「蒸気」の延長線上にあるIT革命と、アフリカまで到達しようとしているグローバリゼーションで、21世紀は「閉じた地球」となりました。1950年代に、マーシャル・マクルーハンが将来そうなるだろうと予想した「地球村(グローバル・ビレッジ)」は実は、狭かったのです。・・・「無限」空間を前提にした近大が「有限」空間に直面すると、成長(近代)それ自体が収縮(反近代)を生むようになります。ドイツや日本の自動車産業の燃費競争における不正や日本の家電産業の不正会計がその表れです。(pp.140-141)
今日のイノベーションは得てして、経済的・政治的な既得権を強化し、(中略)万人が用いるのではなく一部の人しか用いない商品を生み出している」(『大停滞』ジョナサン・コーエン)といいます。たとえば、AIなどはその典型でしょう。AIを所有できる人は世界の中でほんの一握りにすぎません。このように特定の人を対象とした商品では売上に限界があるにもかかわらず、仕入れにあたる研究開発費は高騰し、その結果、売上から経費を控除した企業利益が伸びなくなっています。そのため、経費の大きなシェアを占める人件費カットが行われる。これこそがまさに、現在の資本主義の陥っている問題です。成長、それ自体が収縮を生み出す―。まさに、成長しようとして、自ら収縮を招いているのです。(pp.156-157)
過去の歴史的経緯をたどっていくと、20世紀の「技術の時代」は17世紀の「科学の時代」からの累積の上に築かれたことが分かります。21世紀はどんな時代かをまずは立ち止まって考えることです。走りながら考えると、過去4世紀間の慣性、すなわち、「より速く、より遠く、より合理的に」が働いて、ITを切り札にした第4次産業革命にすがることになります。21世紀は「より速く、より遠く、より合理的に」を追求する「技術の時代」ではありません。21世紀が引き続き「技術の時代」だと信ずるのであれば、少なくとも「よりゆっくり、より近く、より寛容に」を目指す技術でなければなりません。マイナス金利とは、立ち止まって冷静に考えなさいというメッセージなのです。(p.158)

マイナス金利自体が、行き過ぎたことの象徴であり、旧来の「技術の時代」志向では、疲弊してしまった証なのでしょう。

人口減少説はイノベーション減速の理由と同じです。すなわち、近代自ら、高度化・複雑化することで、売上(アウトプット)にコスト(インプット)が見合わなくなってきている。より少ないインプットでより多くのアウトプットを生み出すことが経済合理性なのですが、もはや経済合理性がイノベーションと出生率において破綻しているのです。成長力は、技術進歩(イノベーション)と資本量と労働力人口の3つが源泉です。資本はすでに過剰なので、3つとも成長に貢献できなくなってしまいました。このことからも近代自ら反近代を生んでいることが分かります。(p.161)

これまでプラスであったものが21世紀に入って逆転しつつある。その最も大きなところが、人口。そしてマイナス金利もそうですし、成長一辺倒の前提そのものが崩れているがために、これまでの理論は全く役に立たなくなっている感がします。

デフレの原因を人口減に求める説がありますが、人口減少もデフレも近代が自ら生み出した産物です。近代の生みの親の一人、ベーコンが生み出した「進歩」の行き詰り、すなわち近代社会をさらに一歩前に進めるためのコストがかかりすぎることが水面下の原因(X)なのであって、その結果として、目に見える水面上の現象、人口減少(Y)とデフレ(Z)が現れているのです。こうした点を無視して、人口減少がデフレの原因だ(Y→Z)と考える人たちは、女性が活躍する社会実現や介護離職ゼロ政策を唱えています。「一億総活躍」すれば、労働力人口の減少が食い止められ、デフレから脱却できるというわけです。しかし、「進歩」の行き詰まり、(X)がデフレの原因なのですから、Xを取り除かない限り、人口減(Y)とデフレ(Z)は相変わらず続くことになります。デフレ脱却とは、近代をいかに卒業するかの戦略他なりません。(p.162)
日本の国家債務(国および地方の長期債務)残高は2016年度末で1062兆円に達すると見込まれています。対GDP比で205%に達します。日本の土地・株式バブルが崩壊した1990年には266兆円、対GDP比58.9%だったわけですから、「失われた20年」でいかに国の債務が増大したかがわかります。

確かにそうなんですが、国内貯蓄残高を考えると悲観的になることはないと聞いてます。実際、そのあたりを説明しているサイトもありますので、ご参考までに。知恵袋で説明されていました。

現役であれば、企業経営者は「よりゆっくり」と企業の行く末を考えることができます。足元の積み上げが将来につながるわけではありません。足元の利益を積み上げれば積み上げるほど、将来の方向とずれていきます。また、すでに過剰な資本が存在するのですから、地球の裏側から株主を募る必要はありません。売上先が地域であれば、株主も地域住民でいいはずです。グローバル企業を目指すのではなくて、「より近く」の地域の会社になることです。それには、現金配当をやめて、配当は現物支給にする。そうすると、地球の裏側の株主は自動的に離れていきます。(p.214)
働き方も「よりゆっくり」にすべきです。具体的には働く年齢を26歳に上げて、社会に出るのをゆっくりにし、学生の期間を長くする。近代というレールがなくなっているわけですから、大学で1つの学部で1つの学問を修めただけでは、激変する社会に対応できません。最低2つ以上の学問を修め、中世で重要視されていたリベラルアーツを修得することです。(p.215)

「より寛容に」の答えは「贈与」としていますが、これがあれば今のようにはなっていないということで、いったん引き戻されています。

歴史的な側面も踏まえ、グローバルからローカルな動きのなかでの歪みのようなものを理解することができました。

企業の儲け続けることの難しさ、そして無理やりその儲けを出すために削られる人件費。企業は誰の幸せのために経営しているのでしょうか。企業も近視眼的なことばかりとなると、事業継続危ぶまれる・・・・そんなことになっていないか。非常に考えさせられる内容でした。

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