聖地巡礼ライジング: 熊野紀行
著者:内田 樹,釈 徹宗
内容紹介 日本の宗教性の古層を熊野で探る!思想家であり武道家の内田樹と、比較宗教学者で僧侶でもある釈徹宗が、日本人が失っている霊性を再発見すべく日本各地の「聖地」を旅する新シリーズ。 第2回目は両著者とも初めてとなる紀伊半島・熊野をめぐります。 平安時代から鎌倉時代にかけて、「蟻の熊野詣」と呼ばれ、信仰を集める熊野。 いまなお日本の宗教性がむき出しとなっている聖地で内田樹・釈徹宗は何を思い、感じとったのか――。 よく知られた熊野那智大社や熊野本宮大社といった場所だけではなく、船玉神社や産田神社など、あまり知られていないスポットも紹介しています。 巻末にはこれまでの聖地巡礼を振り返って“復習”できるので、シリーズ1巻を読んでいなくても楽しめます。 内容(「BOOK」データベースより) |
★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 内田さん関係、探していたところ、巡り会いました。
[目的・質問] 内田さんの「聖地巡礼」のなかでの知識がつながっていく世界観を味わう。
[分類] 291.6:日本, 近畿地方
神仏の習合が進むと、そのカウンターのように神仏分離ムーヴメントも繰り返されてきました。平安末期から鎌倉初期にかけては、仏教から神道的な要素を削ごう、という動きがありました。幕末から明治初期では逆に、神道から仏教的なものを排除しようとする廃仏毀釈があった。これを見落とすと、日本の霊性を損ねます。決してシンプルに神仏習合でやってきたわけではない。(p.20) |
こんなふうに、歴史の中での事象と事象が時空を超えて解釈していく感じ、しっかり歴史観というか身につけたいと思っているのですが、そう簡単にはムリですよぇ。もっと勉強しておいたらよかったって思います。
しかしそこは前向に捉えて、この年だからこそ感じられることを感じていきたいと思っています。
「文学不毛の60年間」はいったい何だったんだろうってことが江藤淳の研究テーマなんです。それは、まさに知識人たちがこぞって神仏習合を否定した時期と重なり合う。そして、その60年をきっかけにして、300年続く徳川幕府の政治体制がはじまる。それだけ大きなパラダイムチェンジだったということです。そういうふうに政体が根本から変革されるときというのは、必ずそれ以前の時代に支配的だった宗教の形を徹底的に攻撃するということが起きるんじゃないでしょうか。その派生的な影響として、一時的に文学的創造も枯渇してしまう。(p.21) |
こういう気づきってすごいですね。こんな見方でいろいろな歴史を見ることができると点が線になり、面になる・・・・って、まさにそんな感じです。
仏教は、身体と精神とを分けて考えないところに大きな特徴があるんです。多くの宗教は、身体と精神(心や魂を含める)を分けてとらえます。仏教では、「心身一如」です。そして、これがさらに展開すると、私と環境も切り離すことはできない、といったところまで話が進みます。つまり、仏のいる場所は仏の内面が投影された外界であり、そこが浄土だと考えるようになった。(p.23) |
宗教・・・・こちらも個々の特性、特徴を捉えながら、歴史と対照させることで奥行きのあるものとなるのでしょう。
そんなことを語り合いながらの聖地巡礼・・・・これは何ともいえない知的な旅路となることでしょう。こういう時間を過ごしたいですねぇ。そのためにもせめて、何か一言言える程度でも自分のなかでの芯みたいなのを作っていきたいです。
一遍という人はほんとうに捨てることを実践した人で、何も残さないような人生を歩みました。法然や親鸞と同様に、一遍も「他力の仏道」を歩みます。本来、“私が修行して悟りを開いて仏となる”のが仏道だったわけですが、これを法然が引っ繰り返して、“私は仏に救われる”のが仏道を展開します。「南無阿弥陀仏」を称えることで救われるという、誰もが歩める仏道を主張するわけです。(p.102) |
悪いボーダーというのは、「UFOや霊魂なんてあるわけない」と線引きしてしまう。いわゆる「科学主義」です。科学主義と科学が別物です。科学主義というのは「エビデンスがあるかないか」という二項対立でデジタルに切り分けて、エビデンスがいま示されないものについては、判別を保留するということをしないで、「存在しない」と決めつける態度のことです。硬直しているんです。科学主義の内側に留まっている限り、科学の進歩なんかないのに。・・・ボーダーで二項に切り分けるのは人間知性の自然な働きですから、それを止めることはできない。門打破、そのボーダーを生産的な形で活用するか、それを閉じてしまうか、なんです。エビデンスがないとされる現象の中には、計測機器の精度が低いから検知できないものが多数含まれている。だから、テクノロジーが進化すると、「なんだ、やっぱりエビデンスがあったんじゃないか」ということが起きる。そのためにボーダーのところには「出入り口」を開けておく必要があるということです。・・・ボーダーを引くのは、何もないより、そこに二項対立があったほうが知的に生産的だからです。その線上に感じのいいインターフェイスが生まれる。ものごとを切り分けることが目的なんじゃなくて、ものごとを切り分けることで、人間の知性を活性化することがボーダーの存在理由なんです。(pp.175-176) |
何でも白黒つけたがりますが、そうじゃない・・・そうじゃないと思うんですよね。その間で悩む・・・それってぶれてるのかな。そうじゃないと思っているんですが、どうなんでしょう。
身を置いて初めてわかることってたくさんありますよね。今回、我々のこの聖地巡礼も、その場所に身を置くことでリアルに感じることを大事にしています。行かないとね。行かないと始まりません。(p.237) |
場所もそうですけど、人の立場っていうのに置き換えてもそうですね。分からないですよね。ホントにいろんなことに派生して考えさせられました。
内田さんの本、おもしろいです。ほかにもいろんな人、知らない人で刺激を与えてくれる人・・・・どんどん読んでいきたいと思います。
この作家、刺激与えてくれます!っていう作家さん、いろいろと紹介してください。よろしくお願いいたします。