経済を見る眼

経済を見る眼

経済を見る眼
著者:伊丹 敬之

内容紹介
経営学第一人者が書き下ろした
実践的な経済入門書

本書では、難しい数式は一切出てきません。
「経済を見る眼」を養うための入門書です。

人間の行動やその動機、また多くの人間の間の相互作用を考えることを重視し、人間臭い「経済を見る眼」を提示しています。
著者・伊丹敬之氏は「経済学とは人間の学問である」と述べています。
加えて、「経営の営みは一種の経済現象である」とも述べています。

「原油安でなぜ景気が悪くなるのか」「なぜ機関投機家が企業に過剰な影響力を持つのか」「生産性が低い『おもてなし』サービス産業は発展するのか」など、ビジネスの現場で遭遇する疑問に答えつつ、実践的な経済の考え方や見方を解説しています。

内容(「BOOK」データベースより)
経済学とは人間の学問である。本書では、難しい数式は一切出てこない。経済を見る眼を養うためのもっとも素朴なポイントは、人間の行動やその動機、また多くの人間の間の相互作用を考えることである。人間臭い「経済を見る眼」を提示する。経営学の第一人者が書き下ろした、実践的な経済入門書。

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 伊丹先生の本ということで。
[目的・質問] 経営的視点での「経済」の勘所を学ぶ。
[分類] 331:経済学・経済思想

 

誰も望まないのに、全体を集計してみると、時間の経過とともに悪い事態が起きてしまうことを、合成の誤謬という。全体を構成する部分部分はそれなりに理屈のある行動をとっていても、全体を合成すると、その結果が誰も望まない事態に立ち至る、ということである。そうなってしまう最大の理由は、最後の最後はつじつまが合わないと経済全体は動かないからである。財務政策の実行のために国債発行をすれば、いつかは国の借金を返さないとつじつまが合わない。だから、国債償還の時期がくると、その償還原資が税収などで十分にない場合には借金返済のための国債をさらに発行せざるを得なくなる・それで国が財政破綻への道を歩むことになる。(p.25)
誰かが国の成長基盤を縮小しても構わないと意図的に判断しているわけではない。国全体が使える資金量に限界があるときに、政府が大量にカネを吸収してしまうと、その後のつじつまが合うためには民間への資金供給が減らざるを得なくなる、ということである。つまり、つじつま合わせが経済全体ではつねに必要となるから、合成の誤謬が結果として発生する。当初思いもしなかった現象、逆説が起こる。(p.26)
マクロ経済の中では、あちこちで多様な論理の経路がさまざまに動いている。それでも、どこかでつじつまが合わなければならないから、当初想定したような論理経路の結果とは違う結末になることも多い。そうした結末まで考えるためには、多様な論理経路の全体を眺めるための基礎的な論理枠組みをもたなければならない。その論理枠組みを考えるのが、「マクロ経済を考える」ということである。(p.27)
経済を見る眼を養うためのもっとも素朴なポイントは、人間の行動やその動機、また多くの人間の間の相互作用について、きちんと考えるクセをもつことである。また、経済統計のデータを見る際には、その背後にある人間の行動を想像するクセを持たなければならない。経済統計はただの無機物の測定値ではないのである。(p.284)
マーシャルは明確に、経済学は人間の研究である、しかも富の研究よりも大切な側面、と喝破しているのである。そして、人間そのものの研究の「一部」と彼が言うとき、彼の頭の中には、宗教という人間の行動を動かすものがあったようだ。彼は、「世界の歴史を動かしてきた二つの要因は、宗教と経済であった」と書いているのである。(pp.285-286)
人間の行動を観察して、その背後の論理を考えるということは、マーシャルのいう「ふつうの仕事とビジネスの場」での人間行動のメカニズムを考える、ということである。つまり、ここでの論理とは、仕事とビジネスの場で人間行動のメカニズムが動くステップについての論理、のことである。その論理を考えるとき、次の3つの論理を「等しく」重要なものとして考えることが、経済を見る眼として大切だと私は思う。

  • カネの論理
  • 情報の論理
  • 感情の論理

なぜ、この3つの論理か。それは、「ふつうの仕事とビジネスの場」で人間が動くとき、かならず「カネの流れ」、「情報の流れ」、「感情の流れ」が生まれてしまうからである。否応なしに、3つの流れが同時に発生する。

顧客と企業の従業員の間に、企業で働く従業員同士の間に、経済活動が起きると必ずこの3つの流れが生まれる。その根源的理由は、顧客という人間も仕事をする人間も三面性をもっているからである。カネを必要として、カネのことを気にする経済的存在・物理的存在としてのヒト。情報を感知し、学習し、他人に情報を伝える、情報的存在としてのヒト。そして、感情を持ち、他人の動きや言葉に感情的に反応し合う、心理的存在としてのヒト。3つの面すべてを、一人の人間がもってしまっており、わかちがたい。・・・しかし、人間がこのようなわかちがたい三面性をもっているのに、経済を見る眼ではカネの論理が過大な地位を占めてしまう危険がある。もちろん、市場経済はカネを交換の手段とし、富の蓄積の手段ともする経済だから、カネの論理が経済の論理の中心的位置を占めることは当然である。だが、情報の論理や感情の論理も考えないと、経済を見る眼としてのバランスが崩れる。

たとえば、経済の中でのイノベーションが起きるのは、基本的には情報の流れと蓄積のためである。仕事の場の情報の流れから、技術が蓄積され、ノウハウが形成され、生産性が上がったり大きな技術進歩が起きたりする。あるいは、国の経済発展のプロセスで国民が一体となって心理的エネルギーを高く持って経済活動に励む時期が出てくるのも、人間が心理的存在だからである。だから、経済を見る眼には、カネ・情報・感情の三つの眼が必要となる。三つの流れをつねに総合して考える「三眼の発想」「三眼総合判断」が必要なのである。(pp.289-292)

この部分が一番言いたいことなのでしょう。経済を見る眼=「三眼の発想」ということだと解釈しました。

多様な予想と利害に囲まれた経済の世界の論理の想定の仕方としては、次の三つの注意点が大切そうだ。(p.308)

第一に、多様な予想がどう収斂するかを考える。みんなが相手の出方を考えながら、将来を予想して行動する結果、予想の収斂が起きる可能性が高い。

第二に、複数の利害の衝突を考えて、結局はなにの取り合いになるかを考える。それで、多様さの掛け算の収斂先が見えてくる。

第三に、ミクロの意図とマクロの振る舞いには乖離が生まれることがかなりあることを意識する。その乖離を考えるには、多くの人々の間の相互作用や連鎖反応が鍵となる。

経済・・・「人間」が為されることからの結果であるがゆえ、結局は人間をどう読み解くか・・・その視点が前提となる。

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