コピペと捏造:どこまで許されるのか、表現世界の多様性を探る
著者:時実 象一
内容紹介 現代のネット社会では、コピペ、パクリ、捏造、改竄などが日常化し、不適切な行為と戒められています。しかし、何がいいか、何がいけないか、必ずしもクリアにならない事例もたくさんあります。絶対的な物差しはありません。本書では、多様な実態を整理し、議論を進めていくための手がかりを提供します。 |
★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] タイトルで決定。
[目的・質問] ホントに、どこまで許されるか・・・興味津々です。
[分類] 021:著作. 編集
アメリカでは二次創作のうち「パロディ」が「フェア・ユース」であるとして認められる場合があります。フェア・ユースは、次の4要素を考慮して裁判で判断することになります。(p.12)
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日本は、著作者が著作権い非常に敏感で、寛容さが欠けていることもあってパロディやオマージュをつくることを困難にしているそうなのですが、唯一の聖域は「コミケ」(同人誌市場)だと書かれています。
芭蕉のケースは「剽窃」でなく、今でいう「オマージュ」あると考えればよいでしょうか。しかしオマージュであるためには、もとの文章や作家を読者が知っていることが前提です。島崎藤村の場合は、秋里離島の文章を読んだことのある人は当時少なかったと考えられ、多くの人が、これは藤村の創作であると思ったのではないでしょうか。その場合は、「剽窃」と言わざるを得ません。(pp.20-21) |
つまり「あぁ、これは○○をヒントにしているなぁ」と“言わずもがな”というような場合はオマージュ、そうでなくどこから取ってきたのか分からないが本人だけは知っているものは「剽窃」という感じでしょうか。ちなみに、「剽窃」とは、「他人の著作から,部分的に文章,語句,筋,思想などを盗み,自作の中に自分のものとして用いること。他人の作品をそっくりそのまま自分のものと偽る盗用とは異なる。元来,日本には「本歌取り」の伝統もあり,剽窃 (ひょうせつ) に対する罪悪感は希薄であったと考えられるが,最近は著作権に関する意識の高まりもあって,重視されるようになった。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)というふうに書かれています。
事実を元に小説化したノンフィクションでは、どうしても取材元の素材と似てしまうことがあります。執筆者が素材の作者に丁寧に説明することが重要だと思われます。なお後述しますが、ドキュメンタリーでは素材のプロットは「事実」ですから著作性はなく、利用は自由です。(p.33) |
原文は「ブロット」と印刷されていますが、おそらく「プロット」かと思われます。
似ている曲として有名なのは、山田耕筰作曲の『赤とんぼ』が、じつはドイツ民謡であり、シューマンの『ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ』でも「夕焼け小焼けの」とそっくりの部分があるとの指摘です。一度聞いてみてください。(p.61) |
思わず「にんまり」してします。似ている曲はホントにいろいろあります。ここにまとめられていて面白いです。
最近の裁判の例では、こういうのもあり取り上げられています。(p.63)
さらに、こんなのも紹介されています。
この王道進行に似ているって言われても・・・って感じはありますけどね。絶対使ってしまいますよ・・・・笑
ウィキペディアの記事の本文をそのままコピペ・引用するのは危険です。そこに参照されている文献やウェブサイトを確認し、そちらを引用してください。慶応義塾大学総合政策学部准教授の新保史生も、『アエラ』の記事で、「ただ、ウィキだけで判断してしまうのは、情報精査として危うい。ウィキはあくまで情報ソースの一つ。複数の情報を集めて照合しようとしないことの方が、心配です」と述べています。(p.97) |
私もついつい便利で単なる語句の意味以上の情報が得られるので、WIPIPEDIAを多用していますが、こんなブログですからいいですが、公的な文章であれば信憑性をしっかりと確認することが必要です。
ツイッターに
と書かれていました。このようにオマージュとパロディは、見た人が元ネタを知っていることが前提になります。その元ネタを称賛するのがオマージュで、こき下ろしたりバカにするの多パロディということもできます。したがって、パロディは元ネタの作者から攻撃される危険をいつも持っています。(p.116) |
著作物がデジタル化されることで文章はもちろん、画像においてもコピペが自由自在に行われるようになっています。得られた自由に対してそれを制御する自制心についてもしっかり小学校の時から学んでいかないといけないのでしょう。
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