幸せになる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教えII
著者:岸見 一郎,古賀 史健

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 「嫌われる勇気」の続編!アドラーの教え!
[目的・質問] アドラー心理学について学ぶ。

「愛される人生ではなく愛する人生を選べ」 本当に試されるのは歩み続けることの勇気だ (帯)

いきなり難解な・・・・、さぁ、本文を読んでいきます。

幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではありません。踏み出した道を歩み続けなければならない。(P.10-11)
古代ギリシアにおいては哲学と科学の区別はなく、化学(science)の語源であるラテン語の「scientia」は、単に「知識」という意味でしかありません。・・・哲学(philosophy)の語源であるギリシア語の「philosophia」は、「知を愛する」という意味を持ちます。つまり哲学とは「愛知学」であり、哲学者とは「愛知者」なのです。・・・哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。(P.28-30)
客観的な事実認定に留まる科学と違って、哲学や宗教では、人間にとっての「真」「善」「美」まで取り扱う。・・・哲学と宗教の違いは物語の有無。宗教は物語によって世界を説明する。(P.29)

これは興味深い分け方ですが、言い得て妙です。

アドラー心理学の掲げる目標:(P.38)
●行動面
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
●心理面
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
アドラー心理学の鍵概念であり、その理解において最も困難を極める「共同体感覚」。哲人はそれについて「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと言う。そして、そこには共感という技術が必要になり、共感の第一歩は「他者の関心事」に関心を寄せることだと言う。(P.60)

この「共同体感覚」の説明がこのあと最後まで続きますが、簡単に言うと「わたし」→「わたしたち」→「共同体」と、どこまで自分を解放して捉えられるようになるかというのがポイントです。

アドラー心理学の基本となる【目的論】(P.60-62)
人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きている。・・・われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。・・・自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ、と。・・・アドラーの思想は「人間は、いつでも自己を決定できる存在である」という、人間の尊厳と、人間が持つ可能性への強い信頼に基づいています。

この基本概念はしっかり腹に落としておきたいところで。ケリー・マクゴニガルの意思力にも出てきますが、「いま、ここ」からどう自分を変えていくかです。

人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。・・・逆に言うと、いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。・・・あなたの「いま」が、過去を決めているのです。(P.67-69)

話はそれますが、過去の「歴史」も、当時の為政者によって書き換えられたものであるとなるのでしょう。

問題行動の5つの段階(P.90-103)
・第一段階:称賛の欲求 → 特権的な地位を得ること
・第二段階:注目喚起 → 目立ってやろう
・第三段階:権力争い → 不従順
・第四段階:復讐 → 「わたし」を認めてくれなかった人への愛の復讐
・第五段階:無能の証明 → 「わたし」に構わないでくれ、見捨ててくれ

これも、組織のなかでの各メンバーの行動を見ていても、こういうことが見られる場合があります。こういった段階があるということを知っていると対応策も知らないよりは適切に行えるようにな気がします。

問題行動の5段階、たしかに興味深い分析です。まずは称賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それがかなわなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復習に転じる。そして最終的には、己の無能さを誇示する。そしてそのすべては「所属感」、つまり「共同体の中に特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。(P.104)
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。(P.153-154)
他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとsる、心的な倒錯です。(P.162)
アドラーは、ひとりの個人が生きていくにあたって、直面せざるをえない課題を「人生のタスク」と呼んでいました。「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」(P.175)
「信用」と「信頼」の違い(P.180-181)
・信用:相手のことを条件付きで信じること
・信頼:担保のことなど考えず、無条件に信じること

この「信用」と「信頼」、対部下に対しても使い分けができると説得力のある指導ができそうな気がします。

仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係なのです。(P.183)
アドラーにとっての「仕事のタスク」とは、単なる労働のタスクではありません。他者とのつながりを前提とした「分業のタスク」だったのです。(P.186)

経済学での「分業「」といえば、アダム・スミスがイメージされると思います。広がりますねぇ。面白い感じで知識と知識が繋がっていきます。

アドラーは「論理的でコモンセンスに一致する答えは、われわれは働き、協力し、貢献すべきである、ということだ」と言っています。・・・ここで大切なのは、アドラーが労働自体を「善」と規定していないことです。道徳的な善悪に関わらず、われわれは働かざるを得ないし、分業せざるを得ない。他者との関係を築かざるをえない。・・・要するに、人間は一人では生きていけないのです。そして他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。(P.187-188)

「われわれは働かざるを得ない」・・・・そうですよね。そのなかでどういった働き方をするか、仕事の良い悪いはないにしても、自分自身の貢献度を発揮できる「働き方」を選べる状態になりたいものです。

すべての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、われわれはそれを分担しているだけなのです。・・・人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのだと。(P.192)
自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相はまったく逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にされされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。・・・あなたはまだ、自らを好きになることができていない。そのため他者を信じることができず、生徒たちを信じることもできず、交友の関係に踏み出せずにいる。・・・われわれ人間は、分かりあえない存在だからこそ、信じるしかないのです。(P.209-211)
アドラーは言います。われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができるのだと。自らの価値を実感し、「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができるのだと。(P.237)
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」であり、そこでは「わたし」の幸せでも「あなた」の幸せでもなく、「わたしたち」の幸せを追い求めなければならない。そのときはじめて、われわれは「わたし」から脱却できる。自己中心性から解放され、ほんとうの自立を果たすことができる。(P.246)

あらためて「アドラー心理学」、あえて明示はされていないですが最近のモチベーションの本や、スキルアップのための本などにエッセンスが使われているように思います。

タイミングタイミングでここに引用したことは復習したいものです。

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