知識だけあるバカになるな!
著者:仲正 昌樹
★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 衝撃的なタイトル・・・
[目的・質問] バカにならないためにはどうすればいい?
各学問領域において、「疑う」ことと「知る」ことは表裏一体の関係にあります。自分が常識とか社会通念として何となく“知っていること”について、「本当にそうなっているのか?」という疑問を持って検討するところから、学問的な探求が始まります。「疑う」を進めた結果、それまでの自分が“知っている(つもりだった)こと”を再確認することになるかもしれませんし、全面的にひっくり返すことになるかもしれません。それが学問的な意味で「知る」ということです。(P.27) |
「問い」を立てるということですね。
「方法」というのは、先人がすでに歩いた道の後をたどっていくこと、あるいは、後代の人がたどっていける道を作ることを意味します。デカルトの「方法的懐疑」とは、後の人が、同じ道をたどっていけるような道筋をつけながら、「疑う」ということです。(P.29) |
理論と理論を比較してどちらがより優れているかとか、「その理論を採用すべき理由は何なのか」を哲学的に掘り下げて考えるような“理論”のことを、「メタ理論」と呼びますが、この「メタ」という言葉もギリシア語の<meta>に由来します。この場合の「メタ」は「~の背後に」とか「~を越えて」というような意味だと考えておけばいいでしょう。(P.30) |
ついつい「分かっているつもり」になりますが・・・なかなか説明できない・・ってことは、やっぱりつもりなんですよね。
学問の第一歩は、この「『分かっていないこと』を“分かりたくない私自身”」との闘いだと言っても過言ではありません。(P.54) |
あらゆる学問は、「私は知っている」あるいは「私は分かっている」と思っていることの確かさをもう一度問い直すことから始まります。(P.55) |
西欧では古代ギリシア以来、二つの対立する立場に分かれて問答しながら、お互いに相手の議論の曖昧なところ、捻じれているところを指摘し、批判し合うことで、双方がそれぞれの考えを修正し、単なる思い込み(doxa:ドクサ)から、よく考え抜かれた知識(episteme:エピステーメー)へと至る「弁証法」と呼ばれる方法の伝統があります。(P.79) |
ヘーゲル、マルクスなど、ホントに難解ですが、ほんの少し理解を深めることができたと思います。でもあえて極端に言っている感じのところもありましたので、別の書物も読んでみて、確認しておきたいと思います。
たまたま図書館でいま見ているんですが、
「2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック」には、なんとこんなふうに書かれています。
ヘーゲルは、プラトンと並び哲学史上評判が悪い哲学者である。・・・ヘーゲルの評判が、プラトンに輪をかけて悪いのは、そもそもそれは、「読むことさえできない」。その意味で、理解できない以前である。カントのそれを上回る、用語、造語、四文字熟語の大洪水、字面を見ただけだって、絶対理性の自己認識だとか、即かつ対自の無限者だとか、その形而上性も尋常ではないらしい。しかも、それらを称して「現実そのもの」と抜かしているのだから、この男、何か壮大な妄想でも見ているのではあるまいか。(P.184)
などと書かれています。
やっぱり哲学は深いです・・・・終わりなき旅に入ってしまった感があります。学ぶべきことは多すぎて、時間が足りません。