(著者:外山滋比古)
★読書前のaffirmation!
[目的] 乱読の効果を学び、実践の意義を知る
[質問] 乱読による効果効能は何ですか?また乱読の仕方は?
『知的創造のヒント』や『思考の整理学』で有名な外山滋比古先生の作品です。
先生が言うには、「ひとの意見によることもなく、自分の判断で本を選び、自分のカネで買う。買った以上、読む義務のようなものが生じやすいが、読んでみて、これはいけない、と思ったら、読みかけでもさっと放り出す。」(P.18)
また、「本があふれる今の時代、もっともおもしろい読書法は乱読である」(P.19)としている。
「本は読み捨てでかまわない。本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートにしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにものならない。」(P.45)
これは外山先生だからこそ言えること。未成熟な我々は、少しでも役に立てるようノートをとって、足しになるようにすべきであると私は思う。
読書家は、知識と思考が相反する関係にあることに気がつくゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、もの知りになって、思考を圧倒する。知識をふりまわして知的活動をしているように誤解する。(P.51)
なるほど、これが、本を読み捨てよとおっしゃっていたところの意味だったんですね。「本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。年を取る前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているためである。知識は、化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。」(P.52)
「本の読み方も、これまでのような装飾的、宗教的、遊戯的なものを改める。よりよく生きるため、新しいものを生み出す力をつけるために本を読む。有用な知識は学ぶが、見さかいがなくなるようなことを自戒する。著者、作者に対する正当な敬意は当然ながら、とりこになったりすることは避ける。真似て似たようなことをするのは美しいことではないと考える。むやみに愛読書をこしらえ当を得るのも弱い精神である。子どもにそういうことを要求するのはいけないかもしれないが、一人前の年齢に達したら、ただ本に追随することを恥じる必要がある。」(P.58)
一般に乱読はよくないとされる。なるべく避けるのが望ましいと言われる。しかし、乱読でなくてはおこらないセレンディピティがあることを認めるのは新しい思考と言ってよい。そうすれば、人文系の分野にも、セレンディピティが生まれることがはっきりする。(P.90)
一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではトリ逃すものを、風のように早く読むものが、案外、得ることろが大きいということもあろう。乱読の効用である。(中略)積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。(P.104)