学びとは何か


学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)
著者:今井 むつみ

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] サブタイトル<探究人>、気になりました。
[目的・質問] 改めて、「学び」とは何か、その原点を見つめたい。

子どもが母国語を学習するときに発揮する能力は、まさに「自分で問題を発見し、考え、解決策を自分で見つける」という「学習力」そのものである。「主体的な学び」が教育現場でキーワードになっている昨今、子どもの母国語の学習の仕組みを理解することは、「自ら学ぶ力」がどういうものなのかを私たちが考える上で、大きなヒントをくれるはずだ。(P.ii)

知識への渇望・・・・それこそが学びの継続性であると僕も思います。

熟達の過程はそこで終わりではない。あることが手早く正確に、楽にできるようになるというレベルの熟達の先には、他の人には真似ができない達人のレベルの熟達がある。達人の域に達したと誰もが認める人でも、学びに終わりはない。達人になっても―あるいは達人だからこそ―さらに学びつづける。その過程で誰にも真似できない独自のスタイルを創り出す。(P.iii)

「達人だからこそ、さらに学びつづける」・・・それは学びの面白さを知ったからでしょう。予材管理ではないですが、学ぶことによって予材が見え、それを埋めることに快感を覚えていくというような感じではないでしょうか。

学びのしくみを理解するためには、「知識とは何か」という問題を避けて通ることができない。覚えても使えない知識と新しいことを生み出すことができる知識は何が違うのだろうか。すぐに使える「生きた知識」を身に付けることができるのだろうか。(P.iv)

「知識」を学びという一面から捉えることもできるのかぁ・・・・。深いです。これまでは、「データ」「知識」「情報」という括りで捉えてましたが、これもなるほどです。

「よい学び」を実現するためには、まず一人ひとりが自分は何を目的にして学びたいのかを考え、その目的のために最も良い方法は何かを考え、それを実践し続ける「学びの探究人」であってほしい。(P.v)
「記憶力がよい」というのことには少なくとも4つの型がある。
①瞬間記憶型
②記憶力世界選手権チャンピオン
③シャーロック・ホームズ型
④将棋プロキシ型
である。(P.2-3)

「学びの探究心」マスターしたいです。

私たちは日常で起こっている何かを理解するために、常に「行動を補っている」。実際には直接言われていないことの意味を自分自身で補いながら、文章、映像、あるいは日常的に経験する様々な事象を理解しているのだ。行間を補うために使う常識的な知識、これを心理学では「スキーマ」と呼んでいる。(P.18-19)
人は、何か新しいことを学ぼうとするときには必ず、すでに持っている知識を使う。知識が使えない状況では理解が難しく、したがって記憶もできない。つまり、学習ができない、という事態に陥ってしまう。言い換えれば、すでに持っている知識が新しいことの学習に大きな役割を果たしているのである。(P.23)

それ、分かります。何か一つ、ある程度を極めたら、「学び方」自体を知っていると状態になると思います。ですので、それを適応することでつぎの「学び」は早くなる・・・そんなふうに僕も思っています。

「頭で知っているだけの知識」は「使えない知識」、「体で覚えた知識」は「使える知識」と深く関わっていることが分かる。(P.33)

「体で覚える」・・・そうですよね。ここでは語学のことも書かれていますが、まさにそうで、体の一部になるまではできる範囲で必死でカバーしていかないといけません。一番の問題は時間がない・・・ということ。ホントにだんだん時間が経つのが早くなっている。信じられない世界に入り込んでいるような感じ。

熟達といっても、経験を積むことで、最初はできなかったことが素早く、よぼみなく、正確にできるようになるというレベルの熟達と、それを超えて、その分野で一流となり、さらに超一流になるレベルの熟達とがある。もちろん、これは連続する過程なのだが、熟達者の認知の特徴や学び方の特徴を考えるときにはここを分けて考えることが重要だ。(P.98)

この分け目・・・・どんなところなんでしょう。人に教えられる、というのは一つの基準になるかもしれません。

熟達者の問題の解き方を一言で言えば「自由自在」あるいは「臨機応変」だろう。この背後にあるのは、問題を読むと一瞬で「何が大事かわかる」という本質をつかむ力だ。一瞬で「本質が分かる」というのは、状況を一瞬で把握し、説くべき問題が何か、そのために何をするべきかが分かるということだ。・・・熟達者のもつこうした臨機応変さは、どこから生まれるのだろうか。第一に必要なのは、それを実行するために必要な手続きが反射的に想起され、それを素早く実行するためにすつに体が動くことである。しかし、その時に、今自分が置かれている状況が的確に理解でき、次の瞬間に何をするべきか、素早く、的確に判断できることが必要だ。(P.103-104)

「臨機応変」・・・確かにそうですね。応用力、TPOに応じての変化、など理解できます。このようなことを、認知科学では「スキルの自動化」というとのことで、必要なことを意識を向けずにバックグラウンドでできるようになるということになります。

人は、熟達の過程で、その分野で(熟達者にとって)重要な情報を非常に短い時間で効果的に記憶する術を身に着ける。しかし、熟達者の優れた記憶の本質は、「その場の情報をそのまま記憶する力」ではなく、持っている知識によって状況が認識できる「認識力」にあるのである。(P.113)
認識力とは「識別力」でもある。熟達者は、普通の人には分からない違いが分かる。・・・このような識別力の延長にある熟達者の認知能力は「審美眼」だろう。熟達者は普通の人にわからないほどの厳しく細やかな基準で、出来栄えの良しあしが判断できる。・・・一流の熟達者は普通の人には到底見分けられないレベルで、出来栄えのよい、悪いを判断できる。最高のものとそうでないものを見分ける審美眼が、一流のパフォーマンスを支えているのである。(P.113-114)

「目利き」なんて、まさにそうでしょう。

熟達者の卓越したパフォーマンスや思考を支える認知能力について述べてきた。ただちに本質を見抜く力、臨機応変な応用力、普通の人には見えないものを見分ける識別力と、今目の前には見えないモノ、コトの究極の姿を思いうかべる審美眼。このような能力の背後にあり、すぐれた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準を認知科学では「心的表象」という。この心的表象をより洗練された、よりよいものに育てていくことが熟達の過程なのである。(P.116-117)

熟達者への過程で身につける能力は、上記のようなものになるとまとめられています。

熟達に伴う認知の変化とそれに伴う脳の機能と構造の変化は、様々な分野の学習が多様な形で脳内でなされることを示している。熟達の過程の影響は脳の特定部分の局所的な変化ではなく、ネットワークの変化として考えるべきである。「生きた知識とは何か」という問いについて、学習・熟達に伴う脳の変化が教えてくれること。それは、使うことができる知識は、事実の断片的な記憶の集積ではなく、知識をいかに使うかという手続きそのものの記憶と切り離せない形で脳内に存在するということだ。・・・それができるのは、熟達者が「よい心的表象」を持っているからだ。そのもっともよいパフォーマンスを見極める心的表象がそれを実行する手続きとともに脳内のネットワークにあるからこそ、「ただ知っている」ということだけではなく、「実行できる生きる知識」になっているのである。(P.140-141)

「生きた知識」はどうのように獲得できるかについては、以下に続きます。

知識観、つまり知識についての認識(知識についてのスキーマ)のことを「エピステモロジー」という。・・・「事実」が知識であり、それをたくさん覚えることが大事であるという認識が、現在多くの人に共有されている「知識についての認識」(エピステモロジー)であろう。(P.145-146)

このことを聞くたびに著者は、ドネルケバブいうトルコの伝統的な料理を思い浮かべるとのことである。肉片を集成して作る巨大な竹輪のようなものらしい。

そして、著者は次のように言っている。

知識はきれいに切り取ることができる断片である「客観的事実」として存在し、その断片を人から教えてもらう。「知識=事実」のエピステモロジーでの知識もであるは、「客観的事実」である知識片をぺたぺた表面に貼り付けて行って、ひたすら大きくしていくイメージを喚起させる。そこで私はこれを「知識ドネルケバブ・モデル」と呼んでいる。(P.147)

なぜ、「ドネルケバブ・モデル」は「生きた知識」に結びつかないのか・・・・

「生きた知識」は目の前の問題を解決するのに使うことができるだけではない。新たな知識を創造するために使うことができる。新たな知識はゼロからは生まれない。すでに知っている知識を様々に組み合わせることで生まれる。創造力の源泉は持っている知識を使って想像することである。熟達者の向上の源泉も創造力だ。熟達者は、いまはできなくても、自分が目指そうとするパフォーマンス、あるいは自分が得たいと思っている知識の姿を想像することができる。人は、想像力といま持っている知識とを組み合わせることによって、無限に新しい知識をつくっていくことができる。それに対して、ドネルケバブ肉片をぺたぺた貼り付けるように覚えただけの知識は、使うことができない。使えないから、他の知識と組み合わせられて新しい知識を生むこともないのである。(P.153-154)
いま持っている知識は新しい知識を創るベースとなるとともに、軛(くびき)ともなる。そもそも熟達という過程は対立する二つの方向性に折り合いをつけなければならない過程に他ならないのだ。熟達するにつれて、知識は大きなシステムとなり、安定し、いろいろと考えずに自動的に身体が動くようになる。それはものごとを正確にブレなく行うためにとても大事なことだ。しかし一方で、それは慣れとなり創造性の足を引っ張る。一流の熟達者が創造的であるのは、彼らが「思い込み」にはまらないように、常に思い込みを破ろうとしているからだ。(P.192-193)
「天才」と呼ばれる一流人に共通しているのは向上への意欲だけでない。自分の状態を的確に分析し、それに従って自分の問題点を見つけ、その克服のためにより良い練習法方法を独自で考える能力と自己管理能力が非常にすぐれているのである。若くして卓越した熟達者になる、いわゆる「天才」と呼ばれる人たちは非常に早期からこの能力を身につけている。(P.197-198)
的確な目標を持てるということは、
●その分野の超一流の人のパフォーマンスがどのようなものなのかを理解できる。
●いまの自分がどのくらいのレベルにあって、超一流の人たちとどのくらい隔たりがあるかわかる。
●その隔たりを埋めるために何をしたらよいのかが具体的にイメージできる。
ということだ。自分が超一流になり、自分よりも上の人がほとんどいなくなっても、自分の中で、いまよりももっと上にいる自分、目指すべきパフォーマンスがイメージできる。自分が(そして他の人も)まだ到達していない地点が見え、そこに至る道筋が見える。それが超一流の熟達者と一流の熟達者の違いである。ここでいう「目指すべきパフォーマンス」や「そこに到達するための具体的な道筋や方策」が見えるようになるというのは、その分野の学習での多大な経験と深い知識が要求されることだ。(P.199-200)
「天才」と呼ばれる人は、どこまでも探求し、新しい道を開く人である。誰もがそのような人材を育てたいと思う。では、どのようにしたらよいのか。子どもが将来選択した分野の達人になる手助けをするためのほんとうにシンプルな鉄則。それは以下の二カ条である。
第一条 探究エピステモロジーをもつこと
第二条 親も探究人であること

いろいろと「学ぶ」ことができました。やはり「知識」という捉え方も分野分野で異なりますが、「生きた知識」にしていくということは共通のテーマでそれをミクロ・マクロ的観点もありますが、どう生かしていくかは、活かし方については、それを使う「人」に依存しています。

しかし、このことを知っていると、生かすための土台として「知識」を吸収するか、そこまで考えずにいわゆる事実として「知識」を蓄積するかは変わってくるので、前者の視点で「知識」を血肉にしていきたいものです。

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