幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)
著者:岸見 一郎

内容紹介
本当の幸福とは何か? どうすれば、人は幸福になれるのか? 母親の突然の死、父との不和、自身の死の淵からの生還の体験など、生と死をめぐる様々な体験を契機に、著者の岸見一郎氏はこの問題について、永らく考えをめぐらせてきました。もともとギリシア哲学の研究者であった著者がアドラー心理学に出会ったのも、この問題の追求の途上のことでした。

本書は、そのような著者の個人的な体験と、ギリシア哲学、アドラー心理学など、人間の幸福に関する歴史上の深い考察を総合した結論としての本格的な幸福論です。

さまざまな哲学書を渉猟した結果、哲学者で幸福な生涯を送った者は、ほぼ皆無であることに著者は気づきます。そして思いました「よし、では自分が幸福な哲学者になろう」その結果については、ぜひ本書をお読み頂きたいと思います。

幸福であることを願わない人はいないはずなのに、なぜ、ほとんどの人は幸福感を得ることができないのでしょうか? この問題について長く、深く考え抜いた上で、あるとき、ふと著者は気づきました、幸福になるための鍵は、ちょっとした気づき、視点の転換にあるのではないか、と。著者の考えの道筋をたどりながら本書を読みすすんでいけば、あなたにも、幸福はどこか遠くに探しに行かなくても、初めからここにあったことがわかるでしょう。

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯]
[目的・質問]
[分類] 151.6:幸福主義.快楽主義

 

プラトンは目的論に立ち、自由意思を認め、人間の責任の所在を明確にしている。アドラーも基本的に同じ考えだが、プラトンが十分に論じていない対人関係を問題にしている。幸福が対人関係を離れては考えられないとすれば、アドラーの思想は幸福の問題をより実践的に考える時に有用である。(p.17)
どうすれば幸福になれるのかを考えようとすれば、まず、「幸福とは何か」という問いを立てなければならないだろう。幸福が何かを知らなければ、どうすれば幸福になれるかも分からないからだ。だが問題なのは、幸福については定義することができないということだ。プラトンであれば、まず幸福を定義することから始めるのだろうが、対話が終わる頃になっても一向に定義に成功しない。あげく、われわれは何も知らないというところで対話は終わってしまう。もっとも、その結論に至る過程がすべて無意味だったかといえばそうではない。その過程で、問いへの答えの方向性が明らかにされたからである。(p.20)
幸福は空気のようなものだ。空気がある時には誰もその存在に気づかいない。なくなった時に初めて、空気があればこそ生きることができていたことに気づく。幸福も、失われた時、初めてその幸福を経験する。だから、幸福が失われるのはどんな時なのか、その時どう感じるかを見ることが、幸福が何であるかを知ろうとするきっかけになる。(p.21)
幸福とは何か、どうすれば人は幸福になれるのかと考え始めた時、人はもはや幸福ではないのかもしれない。とはいえ、このような問いを立てないといけないような不幸な出来事を経験しない人もまた、いないだろう。しかし、幸福を阻むように見えることがすぐに思い浮かぶとしても、そのこと自体がすぐさまその人を不幸にするわけではない。反対に、成功したり、幸運に恵まれたからといって幸福になれるというわけでもない。それどころか、これまで見てきたように、何かを経験するから幸福になるわけでも、反対に不幸になるわけでもない。これまでに何度も言ってきたことだが、人は幸福に「なる」のではなく、すでに幸福で「ある」。そのことを知った人は、幸福になるために何かの実現を待たなくても、日常の瞬間に幸福を感じることができるだろう。(p.65)
自分の価値を生産性に見ないで、自分の存在がそのままで他者に貢献できると思うのには勇気がいる。だが、自分についてそのように思える人だけが、他者を生産性では見ない。そのような人で構成される共同体であれば、人と競争することもなく、このままの自分に価値があると思えるので、年を重ね、いろいろなことが若い時のようにできなくなったとしても悠々としてられるだろう。(p,189)
他者が自分をありのまま受け入れてくれる仲間だと思えれば、そんな仲間に役に立とうと思え、貢献感を持つことができる。そして貢献感を持て、自分に価値があると思えたなら、対人関係に入っていく勇気を持て、対人関係の中に入ることができれば、幸福を感じることができるのだ。(pp.189-190)
明日を来ることを普通誰も疑わないが、病気を経験すると、明日が来ないかもしれないことに思い至る。・・・明日が来ることは決して自明ではなく、明日は今日の延長ではないとみることは、病気の時だけでなく、日常の生活でも必要である。にもかかわらず、明日という日が来ることを疑わず、これからの人生が見通せると思い込んでいる人は多い。私は若い人が人生設計をしていることに驚く。そのような人は、人生の先まで見えているのだろうか。これは一つには、明日の自明性を少しも疑わないからだが、なぜ先まで見えるかといえば、今のこの人生にうすぼんやりとした光しか当てていないからである。もしも、強い光をスポットライトのように「今、ここ」に当てれば、先は少しも見えなくなる。(pp.207-208)
明日どうなるかが少しも読めないのはあまりにも怖い。明日は十中八九くると思え、実際、明日がくるような人生のほうが安心ではある。それでも、毎日を同じことの単なる繰り返しとは思わず、たとえ日々の生活のルーティンがほぼ決まている人生ではあっても、今日という一日が決して昨日とは同じではないと思えれば、たしかに人生は、違った風に見えてくる。そのような気持ちで始めた一日は、明日を待たずに完成している。その日が充実していれば、今日やり残したことに注意は向かなくなるものだ。そのように考えて生きれば、気が付けば長く生きたと思える日が、いつかくるかもしれないし、あるいはそんな日は永久に来ないかもしれない。しかし、それは結果であって、長く生きること自体は生きることの目標になり得ない。(pp.208-209)
ジャン・ギトンの「永遠があると考える」というのは、リルケの言葉でいえば、「無限の時間がある」と考えることだ。そのように考えて生きる人は、その人が生み出す仕事だけでなく、その人自身も若いままでいることができる。もちろん、年を重ねることは不可避だが、そのことばかりに意識を向けず、ちょうど闘病中の人が意識を病気にだけ向けず、自分にとって一番大切なことに注力するように、いわば時間を超越して生きれば、いつまでも若く生きることができるだろう。(p.211)
今回、私にとって長年のテーマであった「幸福」をめぐって考えていて、初めて気づいたことが多々あったのだが、中でも自分がずっと幸福に<なる>という言い方をしていたことに気づいた時には本当に驚いた。幸福になる、あるいは、なれるというのは、目下、幸福ではないということである。成功や名誉、富などは幸福の条件ではなく、幸福であるためには必要ではない。それらがあっても困るわけではないが、何かの実現を待たなくても、成功しなくても、すでに幸福で<ある>のであり、何かが人を幸福にするわけではない。反対に、何かの出来事が人を不幸にするのではない。不幸の条件もないのである。(pp.223-224)

以前にアドラー本も何冊か読ませていただいておりましたが、こちらを読んでより理解が深まりました。ありがとうございました。

 

最後にあるように、筆者も改めて気づいたということもあるようで、確かに、幸福に<なる>と幸福で<ある>などというのは、ビジネスの世界でいうところの、AS ISとTO BEではないですが、大切な部分でそれによって発想も全く変わりますので、大事な視点だと思いました。

ありがとうございました。

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