武器としての現代思想

武器としての現代思想

武器としての現代思想
著者:伊吹 浩一

内容(「BOOK」データベースより)
生き抜くだけなら哲学なんかいらない。積極的に生きるために、思想で武装するのだ。哲学は思考の可能域を広げる道具だ。仕事・学業・政治・社会・人間関係・不安・貧困などなど、人を悩ます問題は多いが、身の回りのことから地球大の事柄まで、考える武器を持つことでいろいろ見えてくる。それが具体的な力となるのだ。

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 勝手に考え方の幅なんて広がらない。いろいろなオプションを学ぶことによって、その幅を広げていくのだと思う。そいうった意味で、まずはこのようなガイダンス的な本で自分の「考えの幅」を広げていくためにどのあたりから広げていくかのきっかけをつかんでいくことが大事だと思う。
[目的・質問] まずは、「武器」の種類を知ることから。
[分類] 133:近代哲学

人間の思考を他の動物と分かつ最も顕著な面は、もちろん論理思考である。古来こうした人間の思考の特質は理性というものによって示されてきた。人間の本質とは精神がこの理性という能力をもっているところである、と。理性とは真理を認識する能力、すなわち正しい認識と間違った認識とを分け、でき得るかぎり正しい認識を選び取る能力であるのに加え、日常生活において繰り返される行為の中で、善いと悪いとを判別し、しかもなるべく善い方を選び取る判断力である。この理性という能力を持っているからこそ、人類は何もないところから文明を築き、学問や科学技術を開発し、自分たちが理想とする社会を建設し、様々な製品を生産することによって、より快適な生活を獲得することができたのだろう。こうした思考の能力は他の動物には見出せない人間の固有性を示している。(p.6)

私は、「正しい認識を選び取る能力」というのを上げるために、自分の中での視座というものを多く身につけなければならないと思って、日々勉強をしています。このあたりに関してもっと早く気づいていればよかったと思っています。こういうのを上手く後進に伝えていきたいですね。

 

ハイデガーは、普通一般的に存在する人間を「世人(ダス・マン)」と表現した。世人は日常世界の中に埋没し、匿名的存在となってしまい、自己の本来性を見失っている。こうした世人を覚醒させるのが、死である。誰でも結局最後には死に行き着くんだ、死に臨んでいるのだということを意識する「死の先駆性」を自覚することで、人間の本来性を獲得することができる、そのようにハイデガーは唱える。(p.15)

Steve Jobsのスタンフォードの卒業式のスピーチを思い出しました。癌になって「死」に近づいて色々なことを感じ、考えたと思います。ある意味、覚醒もしたのでしょう。

 

残された道はおそらく、いまある現実の自分の殻を破り、何らかの可能性へと飛び出していくことだけかもしれない。世人の覚醒とはそのようなもののことを言うのだろう。(p.16)
だが、考えてみれば、考えるためには考える方法を知り、身につけていなければ、そもそも考えることはできない。「考える」と一言で言っても、世の中には様々な考え方があるのは誰だって知っている。いま自分が持っている考え方の中で行き詰っているなら、「他の考え方」でやってみればよいのだ。(p.19)

その「他の考え方」があるという前提で、それを学びつづけること、それが大事なんだと考えます。

 

ところで、どの時代のどんな哲学者も、自分より先立つ先輩の哲学者たちを批判することで自己の哲学を確立する。「今はこの哲学者の主張が正しいとされているが、自分の方が絶対に正しいのだ!」と主張することで、それぞれの哲学者は独創的な哲学を打ち立ててきたのだ。だから、どの哲学も主張された当時は「異端」なのだが、しかし時間の経過とともに人々に受け入れられ、新時代の代弁者となり、“常識”となってしまう。デカルトもカントもヘーゲルも<近代>という時代を代表して発言し、<近代>に生きる人々の常識を形成してきた。(P.23)
あげればきりがない。矛盾だらけの事態が20世紀に噴出したのだ。フランス現代思想家たちは、こうした時代状況の中で思索した。彼らは自分たちの眼前に立ちはだかる諸問題を乗り越えるために思索し、何らかの処方箋を提示しようと、「別の考え方」を示そうと奮闘してきたのである。その軌跡が現代思想と作品となって私たちに送り届けられているのである。現代という時代の中では、ただ生きているだけで、息苦しくて、窒息してしまいそうになってしまう人も少なからずいるのではないか。そんな陰鬱とした雰囲気を打ち破り、突破していくためには、何らかの力が必要だ。その力を私たちにももたらしてくれる「武器」となり得るのが、現代思想なのである。(pp.25-26)

ここまでが、「序 考えることを考える」でした。ここからが本番になります。

 

まずはマルクスからです。

「哲学者たちはこれまで世界を様々に解釈してきただけであるが、肝心なのは世界を変革することである」、マルクスはこう宣言した。ここで言われている「哲学者たち」とはヘーゲルとその後継者たちを念頭に入れたものである。「ミネルヴァのフクロウは黄昏のはじまるのを待って飛びはじめる」とはヘーゲルの有名な言葉であるが、哲学はあくまでも物事を静観するものであり、現実の進行が終わってから、そこに本質的なものを見出すことを使命とする、ということである。それゆえ哲学は、ものごとの進行過程に先立って何かを予言したり、現実に実践的に介入することはない。言われてみればたしかに、伝統的に哲学は現実そのものにアプローチすることなく、一歩退いて静観(傍観?)する立場を維持してきた。しかし、マルクスは、ヘーゲルに圧倒的な影響を受けていたかつての自分を脱ぎ捨てるかのように、ヘーゲルを批判し、「世界を解釈することではなく、変革することである」と言い放った。マルクスの先行世代に対する、この若々しく強烈な批判精神こそ、現代思想家たちを魅了したに違いない。(p.30)
世界や人間に関する認識を刷新することである。世界を変革しようとするなら、世界認識そのものを変革しない限り、それは不可能である。社会変革を熱望しながらも、現状から抜け出せないのは、未来の展望を切り拓けないからであり、未来の展望を切り拓けないのは、今ある世界認識に縛られているからなのだ。ならば、新しい世界認識を獲得しようではないか!そうマルクスは私たちに呼びかける。(p.31)
若きマルクスはヘーゲルから絶大な影響を受け、そのもとで思索してきたが、やがてヘーゲルと決別する日が訪れる。ヘーゲルとの決別はマルクスを独自の歴史観の構築へと導くことになる。「唯物史観」の誕生である。(p.37)

「唯物史観」とは、wikipediaによると以下のように定義されています。

 

唯物史観(ゆいぶつしかん)は、「唯物論的歴史観」の略であり、史的唯物論(ドイツ語: Historischer Materialismus)と同義である。19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史観である。その内容は、人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとする歴史発展観である。
ヘーゲル哲学の弁証法(矛盾から変化が起こる)を継承しており、人間社会の歴史に適用された唯物弁証法(弁証法的唯物論)とも言える(しかし、唯物史観は弁証法的唯物論をそのまま適用したものではない、と述べるマルクス主義者もいる)。またフォイエルバッハやフランス唯物論者たちから唯物論を継承している。
マルクスが歴史字ついて考察するときのスタンスも、やはり実際に生き、生産活動に従事する人間に光が当てられ、そこからなされる。人間の物質的生産活動こそ、社会や歴史の基礎なのだ、こうマルクスは考えるわけだ。絶対精神や理性のような人間の頭で勝手に考え出した観念的なものではなく、実際に物を生産するその活動、すなわち生産活動こそが社会や歴史の「土台」となる。そして、その土台の上に、法律・政治・学問・道徳・宗教などの精神的活動の所産が成立する。前者を下部構造、後者を上部構造といい、この上部・下部構造が社会全体を形成している。こうした建物の比喩でマルクスが示そうとしているのは、土台がなければ建物全体は成り立たないということである。生産活動を中心とした経済活動があって(経済活動には他に流通、消費という側面がある)はじめて社会は成立し、社会を維持するために法律や政治、そして学問や道徳が作り出される。それゆえ経済活動こそが社会の成立と維持にはもっとも不可欠なものとしてあり、法律や政治などもこの経済活動をより円滑に行えるよう現状にみあった形で整えられることになる。・・・かくしてマルクスはこう述べる。「人間の意識がその存在を規定するのではなく、人間の社会的存在がその意識を規定する。」(pp.37-38)

近代哲学では人間は自由であるとみなしてきたが、生存するためにはどうしても行わなければならない経済活動によって意識が規定されてしまう、という人間の受動的在り方をマルクスは白日のもとにさらしたとも書かれています。そういう意味では、もっと社会的なところで、家族を守っていかなければいけないとかの道徳的な観念もあって、制限された中での自由ということになるのでしょう。尾崎豊的なところも何かふっと頭をよぎりましたけれど。

 

問題はマルクス主義も含めて、あるイデオロギーが社会の中で絶対化され人々を支配するようになったとき、それに異議をはさむ者は排除され抑圧されるということである。しかも学問が「客観性」をまといながら、「真理」を唱え、支配的なイデオロギーに貢献するとき、「知」は権力を支える道具と化してしまうということである。現代思想家たちは、この問題に注目した。(p.50)

さて、次にニーチェに進みます。

 

ニーチェが提示した方法を「系譜学」という。系譜学はのちの現代思想家たちに大きな影響を与えた。ニーチェ自身はと言えば、系譜学によってヨーロッパ文化が陥った病理の原因を探索することを試みたのである。私たちは自明としていることがらを、それが自明であるがゆえに、敢えて疑うことはしない。だが、まずもって系譜学は自明なものを拒絶するところからはじめられるのである。(p.52)
私たちの真理についての観念に対して、ニーチェは言った。「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」と。たしかに、一つのものごとにも様々な「解釈」があり得る。そして、数ある「解釈」のうちの一つが「真理」として主張される場合も、またあり得る。確信をもって「これは心理である」という一つの「解釈」が示されるのである。しかし、なぜ様々な「解釈」があるのか?そのときニーチェは、その人にそのような「解釈」をさせている根本の動機を問う。なぜ、その解釈がなされたのか。その根源を求め、さかのぼるとき、さかのぼることができない地点につきあたったときにあるものが「力への意思」である。(pp.62-62)
ニーチェは、ルサンチマンは、現実に優れた者(強者)と劣った者(弱者)が存在し、つねに前者が優遇されるという不平等な事実を認めたくないところから生じると考える。不遇を生きる者は、「平等であればいいのに」という思いを抱き、そこから「本来は平等であるべきなのに許せない」というルサンチマンが現れてくるようになる。そしてこの考えを押し進めていき、生の否定へと行き着く。したがって問題は、ルサンチマンが生み出される根元を取り去ることである。その根源とは「平等思想」である。(p.68)

wikipediaのルサンチマンの解説は以下の通りです。
ルサンチマン(仏: ressentiment)とは、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことを言う。
デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールが想定(出)した立された哲学上の概念である。フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が使用(再定義)され、マックス・シェーラーの『道徳の構造におけるルサンチマン』(1912年)で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。

 

「超人の思想」はこうした事態をのりこえるために必要なんだ。まずは強い者と弱い者と力の差を認めた上で、どこでルサンチマンが生み出されるかを見出されるかを見極めることである。そして弱者は、自分より優れた者を妬んだり、憎んだり、あるいは自分より弱い者を見つけて言い気になったり、相対的にルサンチマンを抱いたり、ルサンチマンを自己に向けて自らの生を否定するようなことはやめて、「強い」「弱い」者が示す高次の生き方をモデルにし、それに憧れつつ生きることである。また、強者は凡庸な人間に自分を合わせたり、また凡庸な者に対して優越感を持ったりしないで、自分よりも弱い者を励ましながら、いっそう高次の生き方を目指すのである。これが「超人」に込められた思想である。(p.70)
永遠回帰の思想は、「世界は同じものが同じ順序でただ反復し、それゆえこのようにある他ない」、そして「世界にも人間一人一人の存在にも意味など一切ない」と述べるわけだが、それは結局「ニヒリズムの徹底化」なのである。しかし、これを通過する以外にはニヒリズムの克服はニーチェは考える。ヨーロッパのニヒリズムは、キリスト教が神と道徳を掲げ、哲学や自然科学が真理を掲げ、人々がそれらを信奉し、信奉することこそが「理想」とされることによって生じてきた。だから、こうした「理想」を一切持てないよう、その根元からそうしたものをすべて取り除く必要がある。すべては無意味である!と。ニヒリズムを極限まで徹底化することでしかニヒリズムの克服はできないのだ。(pp.72-73)
ニーチェには「精神の三つの変化」というものがある。まず最初に「ラクダ」であり、それは「重荷に耐える精神」である。ラクダはやがて「ライオン」へと変化を遂げ、自分が背負う重荷を投げ捨て、これまで自分を縛ってきた様々な権威に反抗し、それを破壊する。しかしライオンの段階では、みずからが破壊した後の空虚に新しい価値を創出することができない。これを可能にするためには、精神は、無邪気な「子ども」へと変貌を遂げなくてはならない。無垢である子どもは、この「いま」を生き、この「いま」を悦楽する。子どもは、目的を持たず、無意味な繰り返しを生き、世界と一体となって遊ぶ。子どもは「いま」を否定することなく、ただ肯定するのみである。こうした子どもの自己肯定感の中にこそ「超人」は現れる。精神が子どもへと変貌を遂げること、ニーチェはそれに新しい人間の誕生の未来を見たのである。(p.75)
往々にして強者に立ち向かう者たちは弱者であり、弱者は一人では闘えないのだから、集団を組織することだろう。そして弱者の集団を束ねようとする者は、キリスト教の僧侶やファシズムやスターリニズムの指導者のように、弱者のルサンチマンを巧みに組織していくに違いない。その組織は、それを構成する者たちの生を互いに監視し否定し合うような集団と化してしまうことにもなりかねない。だから、歴史の悲劇を繰り返せないためにも、こうした組織を束ねる「僧侶」に魅惑され、籠絡されないこと、あるいは自分自身がそのような「僧侶」にならないことである。そのとき、ニーチェの思想は「武器」になり得るのだ。(p.78)

ニーチェの思想も改めて学ぶことができました。さて、ここからフロイトになります。

 

フロイトは一つの仮説を提示した。「無意識」である。精神には自分自身でも意識できない無意識という領域が存在する。この無意識が精神だけではなく、身体にも影響を及ぼしているとフロイトは主張したのだ。(p.80)

フロイトはこれくらいにして、「フロイト回帰」を唱えたジャック・ラカンが次に紹介されます。

 

ラカンが当初から唱えてきたのは「フロイトに回帰せよ!」というものであった。ラカンもフロイトと同様に精神科医であり、精神を病んだ者を治療するためには、そもそも「人間とは何か」とか「心とは何か」とかについて自分なりの見解を示さなければならなかった。要するに、理論が必要だったのである。その時ラカンがよりどころにしたのが、フロイトの精神分析理論である。ラカンはみずからをフロイト主義者と称し、フロイトの理論の革新性を世に知らしめることを自己の使命とした。(pp.106-107)
結局フロイト自身はこの難問を理論的に解決することはできなかった。ところが、ここに一定の解釈をもたらすことに成功した者が登場する。ラカンである。ラカンは、ソシュール言語学を導入することによって難問を乗り越えたのである。フランス現代思想は「構造主義」という思想潮流を中心にしながら展開されたが、この構造主義の創始者がソシュールである。(p.110)
言語には「表現」の側面と、「意味」の側面があるということである。ソシュールは言語の表現を担う側面を「シニフィアン」、意味を担う側面を「シニフィエ」と呼び、両者は紙の表裏のように不可分離な形で結合していると言った。・・・ところが、無意識の形成物は意味を欠いている。ラカンがソシュール言語学を導入するのはここである。シニフィアンとシニフィエを完全に分離したのだ。夢や症状はシニフィエ(意味)を持たないシニフィアン(表現)なのだ。たしかに通常の言語記号はシニフィアンとシニフィエが結合したものとしてあるが、それは意識の領域のものであるからだ。それに対して、無意識の形成物には「意味」がない、シニフィエを持たない。無意識の形成物はシニフィエを持たない、純粋なシニフィアンであるということである。さらには、無意識的思考は無秩序な混沌などではなく、そこには意識とは異なる「論理」が働いている。ラカンはこれを「シニフィアンの連鎖」という形で説明した。シニフィアンは単独では存在せず、つねに他のシニフィアンとの関係を持っている。一つのシニフィアンが意味するのは他のシニフィアンとの純粋な差異である。(pp.112-113)
無意識も、意識とは異なる固有の論理を持つ。そこでラカンは言う。「無意識は言語のように構造化されている」。ソシュールが示したように言語は構造を持つのだが、それと同様に無意識も固有の構造を持ち、システマティックに機能する。無意識の形成物は意識においては無意味であっても、固有の論理を有する構造に従って算出され、ラカンはこれをよりどころにしながら無意識に迫っていったのだ。(p.114)
ラカンはいくつもの独自な概念を駆使しながら思想を展開する。その一つが、「想像界(想像的なもの)・象徴界(象徴的なもの)・現実界(現実的なもの)」という3つの概念によって人間存在を捉えようとしたことである。(p.115)

また、鏡像段階論というのがあるようです。wikipediaによると下記のように書かれています。

1937年発表の初期ラカンを代表する、発達論的観点からの理論。
鏡像段階(仏:stade du miroir)論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡に映った像(仏:signe)が自分であり、統一体であることに気づくという理論である。一般的に、生後6ヶ月から18ヶ月の間に、幼児はこの過程を経るとされる。
幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」(仏:unité corporelle)を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば、「寸断された身体」のイメージ(仏:image morcelée du corps)の中に生きているわけである。
そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。
すなわち、人間というものは、それ自体まずは空虚なベース(エス)そのものである。一方、自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目を瞑っていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が、鏡像段階に対応する。

続いて、アルチュセールについて書かれています。

科学こそが常に私たちの認識の地平を切り拓く。そのとき同時にそれに影響された新しい哲学(=イデオロギー)が誘発される。これと同じことがマルクスにおいても生じた。マルクスは歴史の科学、すなわち史的唯物論を創始した。これによって弁証法的唯物論という新しい哲学が誕生した。しかもマルクスは、これを自力で成し遂げたのであり、科学者と哲学者の両方をマルクスは一人で担ったのである。アルチュセールはそのように言う。だが、弁証法的唯物論というマルクスの哲学はマルクスの科学の中にとどまっている。それゆえ、これをマルクスに代わって、白日のもとにおくことが哲学者である自己の任務であるとアルチュセールは考えた。弁証法的唯物論は、新たな科学の誕生を促し、これを多助けするもの、すなわち理論革命を推進する理論、すなわち「理論実践の理論」、アルチュセールはこう言ったのである。(p.153)

次はフーコーです。

生物学、経済学、言語学の成立によって<人間>という概念が誕生したそのとき、これまでになかった学問=科学も生み出されたとフーコーは言う。それは人間を対象にする「人間科学(人文科学)」であり、心理学、社会学、文化史、思想史、科学史などである。生物学が可能になった場にはじめて心理学の領域が開かれ、すなわち経済学が可能になった場に社会学の領域が開かられるのである。それゆえ人間科学は、生物学、経済学、言語学存在する限りでしか存在できないものであって、学問=科学として自立することは不可能であるという刻印をはじめから帯びているのだ。しかし誕生したばかりの<人間>は間もなく終焉を迎えようとしているとフーコーは言う。20世紀に誕生した3つの学問―レヴィ=ストロースの文化人類学、精神分析、そして構造主義的な言語学―の登場によって、<人間>の終焉は宣言されたのである。(pp.200-201)
普通のまなざしでは「見えない」ことも、思想のフィルターを通せば別な仕方で「見える」ものになる。これが思想の破壊力と創造力である。(p.230)

以下は、あとがきからになります。

現代思想家たちは、私たちの「知りたい!」というこの思いに何とか応えようと奮闘してきたのである。おそらく現代思想家たちの著作は、何らかの問題意識をもって向かえばそれなりの力をもって私たちに迫ってくるが、問題意識がなければそこに綴られた文字は単なるインクの染み以上のものではない。・・・そこで行われたことは結局、誰もが普通に生きている中で普通にしてしまう「考え方」から離脱し、「別な考え方」を提示したことである。普通にしてしまう「考え」からの離脱は、それが自明で、疑念など一切抱かせないがゆえに、簡単なことではない。(p.253)

ここには書きませんでしたが、現代思想家として、ネグリ=ハートが書かれています。彼らの著作についても是非読んでみたいと思いました。現代思想のキーとして挙げておられる、マルクス、ニーチェ、フロイトについてはざっと思い出しました。

今日から、4月1日です。4月1日の情報としてこれを挙げることができたのは、おもしろいところです。非常に勉強になりましたし、更に深めるためには、やはり原著かなぁと思いました。とはいえ、それぞれ適切な著作についてはぜひ教えていただいてそのあたりから読み進めたいと思っています。

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