毒矢の喩え

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Wikipediaの仏陀の説明のところに興味深い文章がありました。
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか

毒矢が刺さって医者の治療を必要としている人が次のように問い質す。誰が毒矢を撃ったのか、どんな身分のものが撃ったのか、どんな弓を使って撃ったのか、と。しかし誰が毒矢を打ったのであれ、どんな弓を使って撃ったのであれ、真っ先になすべきことは毒矢を抜いて医者による治療を受けることである。そうした事を知ってからといって毒が消えるわけではないし、また答えを知るまで毒矢を抜かないというのであれば、問いへの答えをすべて知る前にどうせこの者は死んでしまうだろう。同様に世界が永遠であるかないか、宇宙が無限に広大であるかないか、そうした問いの答えを知ったところで生の苦は変わらずあるし、また答えを知るまで何もしないと言ってみても、問いへの答えをすべて知る前にどうせあなたは死んでしまうだろう、と。

これを「毒矢の喩え」と言っているようです。これを解釈するに、「なすべきときになすべきことをする」ということでもあるでしょうし、「物事の本質を見極めろ」というふうにも考えられますし、こういった喩についていろいろな解釈をしていくことで、より深く意味を考え、視野を広げることができる気がします。ホントに考えさせられます。

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