若者よ、マルクスを読もうII

若者よ、マルクスを読もうII

若者よ、マルクスを読もうII
著者:内田 樹,石川 康宏

内容紹介
大好評だった著作の第2弾。前作から4年間、日本ではブラック企業がのさばり、国民を犠牲にした形でグローバル化が進むなかで、マルクスを現代に蘇らせることで解決の枠組が見えるという見地で著者二人が対話し、書簡を交わす。

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 経済学博士を目指す私としては・・・読んでおかねば。
[目的・質問] これを通して、経済学についての見地を深めるぞ!
[分類] 309:社会思想

今回の著作、日本十進分類法(NDC)では、309という分類です。「社会思想」ということですが、あまり読んでない分野だと思います。私自身、修士では経営学専攻でMBA(経営学修士)となっていますが、そのまま後期課程に上がったのですが、組織の関係上、経済学研究科経済学専攻経営分野ということで、まだ取れるかどうかは分かりませんが・・・取れたら、「経済学博士」になるのですが・・・・。ところがです。経済学を深く知らないという恥ずかしい状態でして、なんとか分かりやすく、おもしろそうなところから攻めていきたいと・・・・そこで、この本に出会いました。

いろいろと知らない言葉が出てくると思うので、言葉の勉強も兼ねてになりそうです。

さて、まずマルクスを読むこと自体が、全世界で少なくなっており、いろいろな地域のいろいろな時代でいろいろな扱いを受けている・・・それがずっと引きずられているというような状況のようです。

超大国アメリカの人たちは、1950年代半ば、マッカーシズムの時代に「マルクスを読む」という知的習慣を国民的規模で放棄しました。「私はマルクス主義者ではない」と宣言することが生きるために必要な時代をアメリカ人たちは通過したのです。(p.2)

マッカーシズムとは・・・
マッカーシズム(McCarthyism)とは、1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。アメリカ合衆国上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーによる告発をきっかけとして、共産主義者であるとの批判を受けた政府職員、マスメディアの関係者などが攻撃された。しかし、これは赤狩りというよりも、エレノア・ルーズベルトから反対されたことが象徴するように、リベラル狩りというべきものであった。

これは映画化もされているようです。
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もう一つの超大国旧ソ連は、91年にマルクス主義と訣別して、国家資本主義に路線を切り替えました。いまのロシアでマルクス主義を懐かしむ人たちは「守旧派」と呼ばれており、共産党は「極右」政党として細々と生き残っています。でも、もうマルクスについても、マルクス主義政党についても、その歴史的役割に期待する人はロシア国内にはいないでしょう。(p3)

東アジアを一望しても、マルクスに気軽に触れられる国はほとんどないようです。

日本はそのなかにあって、本当に例外的な国なのです。マルクスの全著作どころか草稿までも翻訳されており、それについての膨大な研究所があり、かつマルクスの理想の実現を掲げる政党が国会に議席を持っている。そんな国は世界中を眺め回しても、もう日本とフランスぐらいしかありません。研究分野に限れば、イギリスもドイツも高い水準を達していますが、どちらの国でも「マルクス主義政党」は国会に席を持ちません。(pp.4-5)

そういう事情を踏まえて、次のように言っています。

マルクス研究と、その理論の現実化については、僕たち日本人だけにしかできない仕事があるかもしれないということです。(p.5)

そして筆者はマルクスに対する捉え方も2通りあると言っています。

マルクシストというのは「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語る人」のことである、マルクシアンというのは、「マルクスの思想をマルクスの用語ではなく、自分の言葉を使って語る人」のこと。(p.16)
これからの国際社会の行く末を見ると、資本主義というシステムがどうなるのかについて射程の長い思考が求められます。そのためには、もう一度マルクスに戻ることが、きわめて有効な手立てだと僕は思います。資本主義の内在的な分析、その本質的な脆弱性を直感したのは、マルクスをもって嚆矢とするわけですから。人類史のはじめから説き起こして、彼の時代の産業構造まで一貫している構造と法則性をつかみ取ろうという「大風呂敷」な仕事をした人はマルクスしかいません、。(pp.29-30)

嚆矢(「こうし」と読む)という言葉、初めて出会いました。意味は、「先端に鏑(かぶら)という、飛行時に大きな音を出す装置を付けた矢。会戦の始まりを知らせる用具として使われた。上記の意味が転じて、ものごとの始まり。」

EU諸国はいま、自分たちのめざす経済社会を「社会的市場経済」と呼んで、アメリカのような新自由主義型の経済を「野蛮な資本主値」と否定していますが(日本の「構造改革」はアメリカ型をめざすものです)、そのあたりにもマルクスの思想は一役買っていると思います。(p.36)

1999年にBBC放送が、過去1000年間で「もっとも偉大な思想家」は誰でしょうと、視聴者アンケートをとったところ、第一位は圧倒的にマルクスだったとのことです。西欧での社会におけるマルクスの根付き具合はアメリカや日本とは全く違っているようです。

マルクスは「命がけの跳躍」という言葉を使いますね。「ここがロドスだ、ここで跳べ」というのもあります。この「跳ぶ」という動詞へのこだわりは、やはりマルクスの個性じゃなかと思います。マルクス自身が推論しているときの身体実感が「跳ぶ」という言葉を選ばせているんじゃないでしょうか。だから、僕が「いいから黙ってマルクスを読みなさい」と若い人たちに言うのは、「マルクスが正しいことを言っている」からじゃないんです。端的にマルクスを読むと「跳ぶ」というのがどういう感じかわかるんからなんです。「跳ぶ」というのはいい換えれば知性が急激に活性化することです。そして、知性を活性化させるためには、現に思考が異常な速度で回転している人のそばにいて、その波動に同期し、感染するのが一番効率的なわけです。めちゃくちゃ頭のいい人の本を読んでいると、普段自分が使っていない知性の部位までつられて動き出す。マルクスの修辞法とか、論理の飛躍の仕方、論理の「飛ばせ方」には強い感染力がある。(p.39)

それはどんな分野でもその創始者に共通する資質としてソシュール、フロイト、マックス・ウェーバーを挙げています。

21世紀になって、これだけ豊かな日本社会において、なぜか疎外された労働者が再び構造的に大量に出現してきた。現在の雇用環境の劣悪さはマルクスを援用しなければ解き明かせません。・・・なせこれほど豊かな社会で19世紀のイギリスのようなことが起きてしまうのか。ソ連崩壊で歴史は終わった、もう古典的なマルクスの階級社会論の方が現状の説明としてはるかに妥当性が高い。(p.43)
80年代終わりから90年代ぐらいに欠けて、「自己実現」とか「自分らしさの探求」とか、そういうことが官民あげて急激にうるさくアナウンスされましたね。僕はそのキャンペーンに「いかがわしさ」を感じたんです。いま思うと、それは労働者の連帯のための理論と実践を解体することを目指していたからなんじゃないか。(p.51)

そんな見方できるんですね。90年代のバブルが弾けて以降、「個」が重視され、「連帯」ということが軽視される。いくら優秀な「個」がいても、「連帯」されたチームには勝てない。でもその「連帯」」が弱められた・・・これって実は暗黙知がDNAとしてベースの日本人には非常に大きな強みなんだと思いますが、それが欧米化?情報操作?されて、弱められている・・・・それって日本の国力が弱められている・・・・そんなふうに読み取るのは深読みしすぎでしょうか・・・・。

大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄という資本主義のシステムを活発に回すためには、どうしても消費単位の分断が必要になってくる。だから、共同体の解体が官民あげてのキャンペーンで進められた。これはことの筋目としては当たり前のことなんです。(p.52)

深いです。逆に考えると、大阪都構想で、大阪府と大阪市が統合されたとするならば、当然、消費の単位が2つから一つになる。経費削減ですが、消費削減であり、雇用削減なんですよね。税金を納める側からすると、確かに無駄に映りますが、少し視点を変えるとその無駄な消費財を作っているところに勤めていたりもするわけで、またその雇用にに守られている人もいるわけで。これまた立場変われば主張も変わる・・・・きっとそうなるんですよね。

労働組合もどんどん壊されている。労働組合を壊すのは、労働者が連帯していない方が経済的には好ましいからなんです。労働者に連帯されては困る。彼らが試算をパグリックドメインにおいて共有されては困る。一人ひとりの労働者が必要とするものを周りの人間は誰も提供してくれない、誰も貸してくれない、誰とも教諭できない、だから自分自身を賃労働に投じて、そこでいくばくかの貨幣を手に入れて、生きるために要るものはすべて市場で買わなければならない。そういうシステムにしたいわけです。生きる上で必要なものは全部市場で買え、と。それが資本主義の要求です。それを実現するためには、市場以外のところで、人間が生きる上でどうしても必要なものは手に入るということがあってはならない。共同体というのはまさにそういうものです。市場抜きでも人間が暮らしていけるシステムが共同体です。だから、市場にとって共同体は本質的に「邪魔」なんです。だから、潰す。そういうシンプルなロジックによって80年代からの共同体解体は進行してきた。僕はそういうふうに捉えています。(pp.56-57)

これも実におもしろい。共同体がなくなると、ホントに「個」になってしまって力は弱くなり、権力者の力で抑えつけられるようになる。

一時期流行した「自己実現」論とか、「自分探し」なども、生きることの満足をもっぱら自己の変革のみに見出すという点で、社会をかえて満足を高めることを忘れさせるものだったように思います。人生は気の持ちようとか、個人の頑張り次第と、個人の内側ばかりに目を向けさせて、社会の仕組みには目を向けさせない。これはこれである種のイデオロギー攻撃ですね。・・・こうした動きに対する労働者の団結した抵抗を押さえるために、「勝ち組・負け組」論とか、その後の「自己責任」論とか、要するに「競争に負けたオマエが悪い」論が強く打ち出されてきます。あれは、特に若者向けのイデオロギーとして、周到に用意されたものだったと思いますね。(pp.60-61)

今もよく言われてますが、「意識高い系」ってやつですが、結局は人と比べて、「俺は意識が高い」という自己顕示欲から出てくるものであるように思いますし、この流れを汲んだものなんでしょうね。

連帯することの成功例って、実は階層上位者を見ればわかるんです。階層上位を占めている人たちって、自己実現とか自己決定とか自分らしさとかとはまるで無縁だから。・・・このところの日本の総理大臣って、誰一人「自分らしさ」の探求なんかしてませんよ。みんな生まれた時から自分の生きる道が決まっていた。・・・周りが敷いたレールの上を、素直に歩いてきた人たちがトップを占めている。自分の属する共同体のために、自分の個人的な欲望や意思を抑制できる人、連帯できる人たちだけが日本社会では階層上位を占めている。上層部は緊密なネットワークを形成して、お互いに便宜を図りあって相互支援、相互扶助をしあっている。逆に下に行けばいくほど、連帯する能力は劣化し、相互扶助のシステムは機能しなくなってゆく。階層化の秘密というのは、結局連帯する能力があるかないかということに最終的には帰着する。僕はそんな気がします。(pp.79-80)

たとえば、フリーメイソンにしてもそうかもしれません。連帯なくしてありえませんね。ご存知の通り、フリーメイソンの起源も石工職人のギルド(同業組合)ですからね。

ここまでが対談、このあとが内田さんと石川さんの書簡のやりとりです。

読者に語りかけるように歴史的な背景も含めて、マルクスを説明してくれています。ゆっくり読んでみたいと思いますので、こちらのブログでは割愛しておきます。すみません。

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