誰が何を論じているのか: 現代日本の思想と状況


誰が何を論じているのか: 現代日本の思想と状況

著者:小熊 英二

これは非常に深い本です。おこがましくて感想は書けないというくらい。著者のフィルターを通してですが、さまざまな学びが万華鏡のように得られます。(Inobe.Shion)

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内容紹介

◆新たな知の立脚点を求めて
縮小する経済、混迷を極める政治と難題が山積みの日本。停滞感からヘイトスピーチをしたり教育勅語復活を訴えるような排外的で夢想的な勢力が力をつけています。既存の論壇・思想が頼りない今こそ、核心を突く問題提起を探しだし新しいビジョンを共に作る必要があるでしょう。近現代思想史の大局を見抜いてきた著者が、凡庸なものから先見性をもつものまで600人以上の論考を読み、労働環境を改善しうるジョブ型正社員論、自助に誘導される介護政策の問題、素朴実在論に陥らないビッグデータの利用法、アメリカの軍事リバランシングを巡る混乱など、難題を解きほぐしていきます。知的状況の記録であるとともに未来への指針を得られる地図となる時評集です。

内容(「BOOK」データベースより)

600人を超える知識人・ジャーナリスト・政治家などが書きつけた同時代の膨大な論考を読み解き、鋭利に論評。地域格差、労働環境、介護、科学技術、金融緩和、グローバリズム、そして軍事問題など、現代日本の課題へ独自の解釈と回答を示す。『朝日新聞』論壇委員担当時のメモ3年分を所収。

多くの知識人に対して、あるテーマごとに「この知識人はこの観点に関してこの本ではこういう見方をしている」ということを集め、読み解いてくれているという書という感じでしょうか。

ここまでまとめ切るということは常人では不可能と思うくらい幅広く、深く網羅されているというように感じました。

これできるのも著者が朝日新聞の論壇委員をされ、「論評を書く」というミッションを持っていたが故のことでしょう。

特に私などは、「14 統計学は神を降臨させうるか」という章などについても、専門家の専門的知見をうまく取り出しまとめられています。私の専門分野においてもこれだけ分かりやすく詳しく語られているので、ほかのところもきっとそうなんでしょう。

じっくりと時間をかけて読みつつ、特に気になるテーマについては、引用・紹介されている書や、参考書などにも手を伸ばすなどといったリファレンス書としても使えそうに思いました。

統計に親しんでいる論者が共通して強調しているのは、記述統計と推測統計の違いである。ある集団を悉皆調査したデータから当該集団の性質を解析する記述統計と、サンプル調査の限られたデータから母集団の全体像を推測する推測統計では、まったく概念が違う。(p.198)

ここは非常に重要なところで、どちらも「統計」と一般的に言われてしまいますが、後者は「推計」と言った方が本当はいいのですが、そのあたりからして日本に statistics を mathematics 並の地位まで引き上げるには重要なことだと思っています。

推測統計は、「見ることができない」母集団を、「見ることができる」サンプルから推測しようというものである。その意味では、天体の運行という「見えるもの」から、人間と社会の未来という「見えないもの」を言い当てようとする、占星術の系譜に属する学問手法である。・・・本当のところをいえば、化学的な装いを持っている推計統計学も、一種の「認められた手続き」以上のものではない。・・・「母集団」というのは「具体的に触ったり見たりできない。「架空」の存在」である。「日本」だの「世界」だのを見たことがある、触ったことがあるという者は誰もいない。・・・しからば「母集団」とは何かといえば、「要するに「確率分布」のことである」。つまり“推計統計学はサンプルから母集団を分析する手法である”というのは正確ではない。本当は、“推計統計学の手法によってサンプルを処理して得られる架空概念を「母集団」と呼んでいる”にすぎない。「母集団」というのは“サンプルから導かれた確率分布のありよう”にほかならず、それ以上のものではない。(pp.198-199)

そして、さらに・・・確かにそうなのですが、その確率分布も「大数の法則」「中心極限定理」もランダムサンプリングなども原理として、また公理としてその前提の上に成り立っていて、それ自体既成事実にすぎないと。

 

19世紀以降、サンプル標本から普遍法則を導くというスタイルの実験科学が横行し、それがたまたま当面の「現実」をうまく説明した(ように見えた)ので、とりあえず公理として認められたにすぎない。・・・「とりあえず、日常生活ではめったに起きないだろう天変地異(超自然的現象)のことは考えなければこれで問題ない」というにすぎない。
近年のビッグデータ論における「因果法則は必要ない。相関関係があれば十分」というのは、開き直りではあるが、統計学とデータの関係の本質を突いた議論ではある。そもそも、因果と相関の厳密な相違について、いまだ共通了解があるとは言い難い。これらを踏まえたうえで、統計とデータ処理になじんでいる論者たちが一様に指摘するのは、ビッグデータは統計学に使用するデータには適さないことだ。それは日々蓄積されて拡大しているがゆえに、記述統計が扱う対象である全体標本ではない。しからば推計統計に使えるサンプルかといえば、ランダムサンプリングなどされていないから、本来は使えない。・・・多くのビッグデータは顧客データであるから、調査側は強制力がないので、ランダムサンプリングに必要な制御などできない。(p.200)
こうした傾向を打破するには、データ収集のあり方、あるいはデータ解析のあり方を、変更するしかない。そこにはどうしても、人間の介在が必要になる。(p.201)
ビッグデータは、それ自体が統計データとしては不完全であり、生成途上であるがゆえに、つねに公開と参加と双方向性を持っているのだ。しかしこうした可能性は、二つの困難を持っている。ひとつは、ビッグデータの可能性である無限の自己生成は、増殖を自己目的化した資本と同じ性質であり、そうであるがゆえに主体的三回を搾取に変換していく側面を持つ、ということである。・・・もう一つの困難は、データ解析と統計という、フィクションとの「付き合い方」の問題だ。フィクションとの付き合い方を誤ると、「統計は万能だ」という物神崇拝と、「統計などフィクションにすぎない」という全否定に陥りやすい。(pp.203-204)
統計を安易に全否定する際には、「社会学的想像力」や「決定論」が持ち出される。しかし実際のところは、これらは素朴実在論とプロセス排除に安住する怠惰の言い訳に過ぎない。データや統計を導入したところで、統計処理のプロセスをブラックボックスにしたままのデータ万能論になってしまえば、やはり素朴実在論と経路依存に安住する怠惰にほかならない。「科学的にありえない」の代わりに、「統計的にありえない」という言説が流行るだけだろう。統計はフィクションだが、フィクションをフィクションとして成立させるために払われてきた努力と、それによって確立されたプロセスは、ただの「手続き」と経路依存に堕し、プロセスの自己目的化となる。これをウェーバーは「再魔術化」と呼び、アーレントは「全体主義」と呼んだ。(p.205)

さて、このテーマ14・・・私自身専門分野でも上のように私自身も日頃思っていることも含めて、言葉としてまとめられており読みごたえがありました。

その他、全部で34のテーマで536ページもの著作です。一気に読むというものでもなく、気になったテーマから読んでいくのが良いように思います。

 

 

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