佐藤優の集中講義 民族問題


佐藤優の集中講義 民族問題 (文春新書)

著者:佐藤 優

ナショナリズムについて、2018年しっかり考えたいと思っています。まずは入門書から入っていきたいと思います。ざっくりと全体像を捉え、そこから推薦書を中心に深めていきたいと思います。その第一弾として、佐藤先生の捉え方についてみていきたいと思います。(Inobe.Shion)

「民族問題」の画像検索結果

内容紹介
民族と国家は現代日本人の必須科目だ!国際的テロ、増大する移民・難民、それに反発する差別主義的な運動――。現代の世界においても「民族」はマグマのように人々を衝き動かし続けている。しかし、日本人は世界的に見ても「民族問題」に鈍感だ。何故か? それは日本人が「大民族」だからだ。
アンダーソン『想像の共同体』、ゲルナー『民族とナショナリズム』、アントニー・スミス『ネイションとエスニシティ』など民族理論の基本図書を読み解きながら、現実に起きている民族危機に鋭く迫る。明解な理論解説と、現場の知を融合した、著者ならではの民族問題入門。さらに深く学びたい人には、厳選された推薦図書も。わかりやすく、生々しい集中講義で、一気に現代社会の最深部が学べる。内容(「BOOK」データベースより)
今も世界のあちこちで民族問題の炎が噴出し続けている!テロの国際的拡散、移民・難民の増大、労働者間の国際競争、トランプ後のアメリカで台頭する白人至上主義、中東からの入国規制―。“民族オンチ”の日本人だからこそ知っておくべき、民族問題の現実と基礎理論がこの一冊に!

まさにこれです。これを勉強したかったのです。これまでこういったことに関して、無頓着でしたが、ひょんなことから非常に興味を持って、今年の勉強のテーマとしました。

本書は、佐藤先生が同志社大学東京サテライトキャンパスで2015年5月~2016年2月にかけて行った全10回の講義録を編集したものとのこと。これライブで講義を受けたいですね。それは叶いませんが、より体系的に修正されているでしょうから、この本でしっかり学びましょう。

まずは、「民族問題」を考えるイントロダクションとして、ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ ゲルナー、A・D・スミスの基本的論点とそれぞれの主張の関係性についても整理されています。

まず「民族」というアイデンティティの核となるものは何か?言い換えると、我々が「日本人」だと意識するとき、何がその根拠となるのか。そのとき、大きく異なる二つの考え方があります。ひとつは「原初主義」というもので、もうひとつは「道具主義」です。(p.20)

原初主義:民族とか国家には、その原初、はじめのところに、何かしらの実体的な源があるという考え方。たとえば、日本語を使うから日本人だと考えるなら、言語が民族の源となるし、肌の色や骨格など生物的、自然人類学的な違いに境界線を求めると、人種主義に近づく。

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こうした素朴な考え方はわりと簡単に壁にぶつかってしまいます。言語にしても、人種にしても文化にしても、歴史的に源をたどっていくと、複数の「民族」にまたがっていたり、境界が曖昧だったり、住んでいる場所も移動していたりと、矛盾する事例がたくさん出てきてしまう。

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それに対して、「民族というものは、作られたものだ」と主張するのが道具主義の立場です。では、何のために、誰が「民族」を作ったのかというと、国家のエリート、支配層が、統治目的のために、支配の道具として、民族意識、ナショナリズムを利用した、と考える。だから「道具主義」なんです。

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この道具主義の代表的な論者が『想像の共同体』の著者、ベネディクト・アンダーソンです。彼は<国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)である>という有名な定義を提示して、国民、民族とは政治によるフィクションだと説いたのです。そして、支配層が心理操作によって、国民、民族という自意識を高めて、敵と味方の線引きをしていく。その意味で、民族というのは確実不変なルーツやコアを持つものではなく、非常に流動化しやすく、操作されやすい概念だと唱えたわけです。(p.21)
『民族とナショナリズム』のアーネスト・ゲルナーも、道具主義に立ってはいますが、私はアンダーソンよりもゲルナーのほうが、より本質的で深い議論を展開していると考えています。ゲルナーは、ナショナリズムを近代特有の現象だと位置づけるのですが、そこで産業社会の成立とナショナリズムを結び付けて論じている。(p.21)

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現在のアカデミズムにおいては、この道具主義が圧倒的に主流。それに対して、日常的な使い方においては原初主義のほうが一般的。つまりアカデミアと一般で乖離があると。

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それを理解するには、ゲルナーの弟子でもあるアントニー・スミスの「エトニー」という概念を補助線として考えるといい。この「エトニー」とは近代以前から存在する文化的共同体で、それが近代的なネイション(国家)の成立と深く関わっていると説くのです。といっても、「はじめにエトニーありき」といった単純な原初主義には陥らない。(p.22)

以後、この大枠の基本として、例も交えながら、解説してくれています。

第二講では、「民族問題の専門家スターリン」と題した講義です。

スターリンは、宗教の力をすごく理解していたのです。宗教のポイントは何か?それは、理屈ではわからないこと、実証できないことにも、何かの真理がある、という感覚です。宗教的トレーニングを重ねると、目に見えないけども、確実にあるという感覚が研ぎ澄まされていく。その意味では、私はスターリンの猜疑心の強さというのは、ある意味、宗教者の感覚に近いと思います。(p.42)
スターリンの深い宗教理解、そして民族理解を感じさせるのは、1941年7月、独ソ戦に際したラジオ演説です。普段の演説は「同志諸君」から始まるのですが、このときだけスターリンはまず「兄弟・姉妹の皆さん」と呼びかけた。これは教会で神父で説教するときの呼びかけなんです。そして、スターリンはこの演説で、戦争の名前を「大祖国戦争」と名付ける。要するに共産主義のイデオロギー用語を使わず、「祖国の危機」というナショナリズムに訴えたわけです。ちなみにロシアにおいて「祖国戦争」といえば、ナポレオン戦争を指します。こうした言葉の使い方も、スターリンはうまいんですよ。(p.44)

こういった言葉の選び方、特に人に大きな決断をさせるときには気を配らないといけないんですね。非常に参考になります。

1920年代の終わりから30年代にかけて、スターリンが始めたのが「民族境界線の策定」でした。このやり方が面白い。・・・つまり、言葉の違いという原初主義的な基準を持ち出して、実際には、統治の都合で境界線を引いて、人工的に「民族」を作り出すという道具主義そのものの手法を駆使するのです。(p.48)
自分の匂いは自分でわからないのと一緒で、自分たちの固有のこだわりというものは、当事者にはなかなかわからない。むしろ外部観察者からみると、「理解しにくい固執」という現象として、スターリンの表現でいえば<一民族に共通な文化のもつ独自性>として見えてくる面もある。ここでスターリンは<こうして、われわれは、民族のあらゆる特徴をかぞえつくした>と宣言して、最終的な定義を行います。

民族とは、言語、地域、経済生活、および部下の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である。

このスターリンの定義によると、たとえばユダヤ人は「民族」ではないことになります。(pp.58-59)

ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、おそらく日本で最も読まれているナショナリズム論でしょう。なかでも有名なのは、ナショナリズムには実体的な根拠などない、すべてはイメージの産物に過ぎないとした点です。冒頭でも触れましたが、もう一度引用しておきましょう。

国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンドポリティカル・コミュニティ)である。

国民とはl、前回、スターリンが列挙したような言語や地理的、経済的共通性は関係ない。血縁でも、地縁でもない。あくまでもみんなのイメージのなかにある共同体であり、その形成には政治が深く関与している。アンダーソンはそう唱えたのです。(p.66)

「想像の共同体」とはいかなるものなのか。アンダーソンの説明をみてみましょう。

国民は[イメージとして心の中に]想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きているからである。

アンダーソンは、この「想像の共同体」は「文化的人造物」だとしています。では、民族の形成は鍵を握るものは何か?アンダーソンは新聞と小説。つまり出版資本主義だといいます。・・・新聞が、自分たちの想像の共同体をつくり出すことに対して、非常に重要なツールになる。それは記事の内容や論調だけではなく、そもそもその新聞がどの言語で書かれているか、何をニュースとして選択しているか、そして、それが人々に共有されていることが重要なんです。(pp.72-73)

われわれが近代小説を読んで、読みやすいと感じるのは、その小説の世界がわれわれの生きている世界と―アンダーソンの表現を借りれば「溶接」されていて、空間的にも時間的にもイメージを共有しているからです。それをアンダーソンは「想像の共同体」と結びつけて論じています。ここで重要なのは、言語、それも標準語です。・・・われわれがいま話している日本語、これは一応、標準語とされていて、東京の山の手の方言をベースにしていると思われていますが、こんな言葉は、江戸時代に戻っても、どこでも使われていなった。これは書き言葉から生まれた言葉なんです。(p.74)
文体というのは要注意で、文体が変わるときは、人間のものの考え方が変わる。だから遠距離恋愛をしていて、相手のメールの文体が変わってきたときは、何かが起きている。今まで使わない単語が増えたり、新しい言い回しが入ってくるというのは、思想が変わっているということなんです。(pp.75-76)
もうひとつ、アンダーソンが重視する概念が「公定ナショナリズム」です。これはちょっとこなれていない訳語だけど、要するに、上からのナショナリズム、統治のためのナショナリズムです。どうして、「公定ナショナリズム」というものが必要になったのか。アンダーソンはこう論じます。

「公定ナショナリズム」―国民と王朝帝国の意図的合同―を位置づける鍵は、それが、1820年代以来、ヨーロッパで増殖してきた民衆的国民運動の後に、それへの応戦として発展したことにある。これらのナショナリズムがアメリカとフランスの歴史をモデルとしたとすれば、かわって今度は、これらナショナリズムがモジュールとなった。ただ、そこでは、貸衣装によって国民的装いをした帝国を魅力的なものに見せるだけのなんらかの手品を工夫する必要があった。

つまり19世紀のはじめにヨーロッパを席巻したナポレオン戦争、イギリスに勝利したアメリカ独立戦争を受けて、国民を動員できる国民国家、ナショナリズムの強さに、ヨーロッパの君主たちが驚くわけですね。そこで「モジュール」、国家を強化する部品としてナショナリズムを導入しようとした。これがアンダーソンの見立てです。(pp.77-78)

アンダーソンの『想像の共同体』を読んできて、やはり物足りないのは、民族やナショナリズムを支える「目に見えない世界」が根本的に欠落していることなんですね。この「見えない世界」について真剣に考えてきたのが、宗教です。(p.92)
シュライエルマッハーは牧師でもあり、ベルリン大学の創始者の一人として後に神学部教授を務めてもいる。ドイツは牧師も国家公務員だし、国立大学でも教鞭をとった彼が、大学が国家からの自律性を持つほど、また、学問の自由があるほど、国家は強くなる、という論を立てている。では、実用教育と区別されたところの大学は何をやるか。シュライエルマッハーは、まず本格的な研究の前に、その専門的な研究が他の専門分野とどのような関係にあるかを認識する場だといい、さらにはそれを素人にも説明できる能力を身に付ける、それが大学の役割だというのです。(pp.94-95)

ふと思ったのですが、大学の先生となると自分の専門分野ばかりの研究になってしまうことが多いように思いますが、先生自身も2つ、3つの専門を身に付けてT型とかH型の人材になると、授業も深みが出たりするような気がします。結局、学生にいろいろなことの無知を知ってもらって、興味を抱かせるということが大事なんだと思うんですよね。そういえば、ウィリアム・A・ウォードという人の言葉に「良い教師は生徒に説明し、優れた教師はやってみるが、偉大な教師は生徒のやる気を引き出す。」というのがありますが、その”やる気を出す”、、、、出させるための武器として、他の専門分野というのはすごく意味があると思うんですけどね。もし私が大学の学長になったら、先生にもほかの先生の授業に出るように言いたいところですね。

シュライエルマッハーによれば、「諸学問を媒介する学問」としての哲学は、専門的な諸学問とともに学ばれて初めて意義をもつ。したがって大学の教師は、哲学を純粋思弁としてではなく、個々の専門科目と連関させて教えるよう要求される。その際、教師は、常に新鮮な対話能力をもって学生に働きかけなければならない。講義は、学生への一方通行だったり、毎年同じ内容の繰り返しであってはならず、学生からの質問にも触発されて年々豊かになっていかなければならない。(p.95)
これがカントだと、神とは、物自体「Ding an sich」であって、われわれ人間は知ることは出来ない、となる。そして、どこかから絶対に正しい命令がやって来て、それ従うのが宗教だ、という説明になります。これだと宗教というのは、結局は、道徳に還元されてしまうわけです。清い生活をすることだけが宗教なのか、とシュライエルマッハーは疑義を呈した。(p.97)
みんなが感じ取ったものを全人類が共有できれば、それが宇宙であり、神だとする。その図式を、特定の言語限定、もしくは地域限定の「神」=共通意識をもつ人たちにあてはめると、それが「民族」になると考えられます。その意味で、ナショナリズムは宗教にきわめて近似しているといえるのです。・・・ナショナリズムの背景には、宗教的な発想、「目に見えない世界」があることは頭に入れておく必要があります。アンダーソン的な道具主義に何が欠けているのかが少しっきりしたのではないでしょうか。(pp.100-101)
アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』は私の知る限り、民族問題に関するもっとも知的レベルの高い本です。・・・ゲルナーが独特なのは、ナショナリズムを精緻に定義づけるといった方法は取らないことです。そのかわりに、ナショナリズムに関する誤った理論について、短いリストを提示する、という。これは否定神学の発想なんですね。否定神学というのは、そもそもビサンツ神学、東ローマ正教会の進学です。(pp.104-105)
否定神学は、いわゆるポストモダンの思想界で非常に注目されました。たとえば、前期のウィトゲンシュタインの考え方もそれに近い。『論理哲学論考』の有名な最後の命題「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というのはまさにそれで、ビザンツ神学を現代に言い換えたものだと言えます。この否定神学の方法を使って、ゲルナーが挙げているのが、次の四つです。

  1. ナショナリズムは自然で、自明で、自己発生的なものである。もし存在しないとすれば、それは強制的に抑圧されているからに違いない。
  2. ナショナリズムは観念の産物で、悔やむべき不測の出来事によって生まれたものに過ぎない。ナショナリズムなしでも政治は成り立つ。
  3. 本来、階級闘争に向けられるべき、エネルギーが、間違って民族運動に向けられてしまった。
  4. ナショナリズムは暗い神々、先祖の血や、土の力が再出現したものである。

この四つのいずれかに、ナショナリズムを論じる大方の論者は含まれてしまうと思いますが、ゲルナーは<これらの理論のうち、わずかばかりでも有効性を認められるものは一つもない>と一刀両断にします。(pp.106-107)

上の4つについて、1はいわゆる原初主義的な立場。2は、典型的な道具主義の議論。3はマルクス主義への皮肉。4はナチズムの考え方。と書かれています。

もっともゲルナーも「そのいずれもが十分ではない」と留保しながらも、暫定的な民族の定期は試みています。

  1. <二人の人間は>同じ文化を共有する場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。その場合の文化が意味するのは、考え方・記号・連想・行動とコミュニケーションとの様式から成る一つのシステムである。
  2. <二人の人間は>彼らがお互いを同じ民族に属していると認知する場合に、そしてその場合にのみ、同じ民族に属する。換言するならば、民族は人間が作るのであって、民族とは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住民であるとか、ある言語を示す人々であるとかといった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いのある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、民族となる。

一番目は、文化に力点を置いた考え方。二番目はメンバーの意志、民族意識に力点を置いています。・・・一般的にいうと、1の「文化」に重点があるのは、比較的大民族で、2の「意志」が強調されるのは、大民族の領域の中にいる小民族という傾向があります。この2つの立場のズレはなかなか相互理解が難しい。(pp.109-111)

ゲルナーの民族理論の大きな長所は、経済という視点をもっていることです。ゲルナーは産業社会の成立こそが民族やナショナリズムの苗床になったと考えるのです。ゲルナーの議論の射程の深さは、前農耕社会、農耕社会、産業社会という歴史の基本的な三段階を想定して、そのなかで産業社会を論じていることです。(p.111)
ゲルナーのユニークなところは、産業社会を「エントロピー」という熱力学の概念で説明することです。そして、その枠組みを使って、民族問題の源ともなる差別の問題にも踏み込んでいく。このあたりの凄みは、ゲルナー特有のものです。(p.116)
特定の場所だけ熱が溜まったり、逆に冷えている状態を、対エントロピーと表現して、それをナショナリズムに適用することができるのではないか、というのが、ゲルナーの着想なんです。(p.117)

以下は、グルナーの『民族とナショナリズム』の第6章、「産業社会における社会的エントロピーと平等」より抜粋です。

農耕社会から産業社会への移行は、一種のエントロピー効果を、すなわち決まった様式から意図的な無定形性への転換を伴う。農耕社会は、その相対的に固定的な専門化と、地域、血縁、職業そして位階に基づく恒久的な集団分類とによって明確に特徴づけられる社会構造を有している。(略)社会は文化的差異を不快なものとみなすどころか、それを表現し承認することが最も相応しく適切なことであると心得ている。文化的差異への尊敬が礼儀作法のまさに本質なのである。(pp.117-118)

さらに産業社会はというと…

産業社会はこれとは異なる(略)<地域や労働の>単位への帰属は固定されたものではなくて、出入りが激しく、一般に構成員の忠誠心や一体感を保証したり確約したりはしない。(略)本質的に無作為で流動的であるような全体性によって古い構造は消滅させられ、ほとんどとって代わられてしまうのである。個人と全共同体との間のどの中間レヴェルにおいても、有効で拘束力ある組織はほとんど存在しない。(略)下位集団が浸蝕され、読み書き能力に依存する共有文化の重要性が広く増大するために、民族は今やこの上もなく重要なものとなる。(p.118)
ここでの農耕社会は、職業も専門化されていて、地縁や血縁などによってさまざまな縛りの中で生きる身分制社会のイメージですね。そういう社会においては、言葉で言えば敬語が極めて複雑に発達します。それに対して産業社会は、基本的には全員がフリーターの世界です。どんな職業についてもいいし、どこに住んでもいい。その意味で、全員が均質だといえる。基本的な教育を受けていれば、誰でも均質の労働ができるようになるというのが、産業社会の基本モデルです。それをゲルナーは「エントロピーの増大」と表現している。そして、前近代社会にあったギルドや教会、大規模な親族組織などの下位集団は解体が進むか、影響力が減少する・そこで重要になるのが国家であり、「民族」なのです。そこでゲルナーは産業社会において、重要なのは教育だと指摘します。

不可避的に、国家は膨大な社会インストラクチャーの維持と監督(その費用は、きわめて驚くべきことに、社会の総所得の半分い近い)を引き受けることになる。教育制度は国家の非常に重要な一部となり、文化的・言語的媒体の維持が教育の中的役割となる。市民はこの媒体の範囲内でのみ概念的に呼吸し活動することができるのであり、その媒体は国家の領域や教育的・文化的装置と同一の広がりを持ち、保護や支えや世話を必要とするのである。

アンダーソンは『想像の共同体』の中で、ネイション、民族とは想像上の政治的共同体だと唱えました。それだけでは、ある日、みんなが共同体だと想像したり、支配層がその観念を押し付けたら、民族が生まれるかのようなロジックに見えてしまう。それに対して、ゲルナーは民族は近代の産業社会になって、人間が均質化することで生まれた、と論じています。均質な労働力を生み出すために、均質な教育システムによって、文化が共有されていく。それが政治単位と結びついたところで、民族はつくられるという考えになるわけです。それまでの農耕社会だと、農民の子は農民、職人の子はずっと職人だったから、教育のコストは低く抑えられた。ところが産業社会では均質な労働力として、なんでもできるようにしておかなくてはならない。そなると、教育に莫大にな金と手間がかかるわけです。(pp.119-120)

そしてゲルナーは次のように書いています。

文化の役割は、もはや社会内部の構造的差異を強調したり、それらを可視的かつ権威あるものにさせたりすることではない(略)。逆に、文化的相違が地位の相違と結びついたり、それを強化したりするようなことが起これば、それは当然の社会にとって恥ずべきことであり、その教育制度の部分的失敗の印としてみなされるのである。教育制度に委ねられている課題は、全社会に相応しい忠実かつ有能なメンバーを育成することにあり、(略)もし教育制度の一部が怠慢もしくは内密の目論見によって本質的な文化的相違を実際に作り出し、そうすることによって差別を許容したり奨励したりすれば、それはちょっとしたスキャンダルの一種ともみなされるのである。(p.120)
国家よりも強い絆で結ばれた集団は、学閥、企業であろうが、過激派、ヤクザ組織であろうが、みんな反国家的な存在なんですね。結論から言うと、国家を超えるような帰属意識を養成できる集団は、近代社会においては成立しにくいわけです。もし成立するとすれば、そこにはそうとう強力な耐エントロピー構造が必要になります。たとえば宗教。たとえばイデオロギー。こういうものを強力に持った集団でないかぎり、国家に対抗することはできない。(p.121)

ゲルナーは次のように言っています。

多くの者<移民・少数民族>は、最初は同化し、その後に自分たちの新しい文化のために高文化としての十分な地位と国家というそれ自身の政治的屋根とを確保しようと政治的な闘争に加わることによって、もともとは純粋に自分たちのものではない文化のためにイレデンティズム的なナショナリストとなったのである。(p.128)
植民地化されたり、移民となったりして、ある共同体に入る。そのとき最初の選択は、その共同体の主流派に同化していくことなんですね。ところで、多くの場合、それは挫折する。そうすると、「この国はとんでもないところだ」というので、ものすごい反発を抱いて、もともとの自分の出自である民族に対して、過剰な理想化をするわけです。イレデンティズムとは「民族統一主義」と訳されることが多いのですが、離れてしまったもとの民族との一体化を目指す。遠距離ナショナリズムです。故郷を離れ、観念の中で組み立てられた、理想化された民族意識というものは、ものすごい力を持つ。それが分離運動や独立運動になっていく。(pp.128-129)
ゲルナーの議論の結論部をみてみましょう。なぜ産業社会が民族やナショナリズムの苗床となるのか?それを改めて分かりやすく論じています。

われわれの一般的議論は次のように言い換えられるであろう。産業化は流動的で文化的に同質的な社会を生じさせ、したがって、その社会は、以前の安定的で階層化され教条的で絶対論的な農耕社会には通常欠けていたような、平等主義への期待と渇望とを持つ。

この議論はすごく重要です。マックス・ウェーバーは有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などで、近代的な自由と平等があるから、起業家精神が起きて、産業社会ができたんだと論じていました。ところが、ゲルナーはそれは逆だ、というわけですね。産業社会では、仕事の内容も、働いているメンバーも、働く場所も、すべて流動的になる。だから移動の自由、身分の自由、職業選択の自由が生まれてきて、みんなが均質化するから平等主義的になっていく。どんな形の仕事にも対応できる労働者が必要となるのですが、そこで教育の重要性が上がり、自由と平等という理念も浸透しやすくなっていく、とゲルナーは考えたわけです。(pp.136-137)

最後にアントニー・スミスの『ネイションとエスニシティ』についてです。

 

ナショナリズム論、民族理論というのは、理論的な完成度もさることながら、結局は、現実の政治をいかに説明できるか、実践面にいかに活かしていくかが大事なのですが、その意味で、ゲルナーの弟子でもあるスミスの議論は「使える」ナショナリズム論になっています。アンダーソンはナショナリズムに興味のある人たちに広く知られていいて影響力はあるけれど、実際の民族問題の現場からすると、ほとんど使い物にならない。ゲルナーはある程度、特定の地域だったら使うことができるし、理論仮説としては非常にレベルが高い。しかし、最も現場で通用するのは、このスミスの理論、なかでも「エトニー」という概念だと思います。(p.182)
スミスは「エトニー」という概念から出発します。これはフランス語で、古代ギリシャ語の「エトノス」からきた言葉なのですが、スミス自身による定義を見たほうが早いでしょう。

エトニとは、共通の祖先・歴史・文化をもち、ある特定の領域との結びつきをもち、内部での連帯感をもつ、名前をもった人間集団である

つまりスミスは「ネイション」はたしかに近代の産物だけれども、前近代においても依存する、そのもととなるもの、それが「エトニー」だとするわけです。ただしエトニーがそのまま民族になるわけではない。エトニーの中には、別の民族に吸収されてしまうものもある。エトニーのごく一部が民族をつくり、そのまた一部が自前の国家を形成すると考えた。スミスが挙げているエトニーの6つの特徴を見ていきましょう。

1.エトニーは「名前」を持っている
2.共通の血統だという神話
3.歴史の共有
4.独自の文化の共有
5.ある特定の領域との結びつき
6.内部での連帯感

この6つの要素を統合したもので、最初に挙げた定義に行きつくということです。

その後、沖縄についての考察が書かれており、こちらも非常に示唆に富んでますので是非お読みください。おすすめです。

下記は、文中に登場する推薦図書になります。私もこれらについても読んでいきたいと思います。

 

 

 

●推薦図書
▼推薦図書①


▼推薦図書②



▼推薦図書③









▼推薦図書④

▼推薦図書⑤



▼推薦図書漏れ?


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「佐藤優の集中講義 民族問題」への1件のフィードバック

  1. お世話になっております。Inobe.Shionです。こちらのページへのアクセスが非常に多く、感謝しております。コメント等ございましたら、よろしくお願いいたします。語り合って、理解を深めましょう!

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