勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者:千葉 雅也…

非常に刺激的な著作です。ものごとの新しい見方を提供してくれると言っても過言ではないかもしれません。切れ味の鋭い書です。おすすめです。(Inobe.Shion)

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メディア掲載レビューほか
哲学者・千葉雅也「世間に迎合も孤立もせずに生きていくためには“勉強”が必要だ」博士論文を改稿した『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』でデビュー、翌年、ツイッターでの140字内の短文考察を再編成した『別のしかたで ツイッター哲学』が話題を呼び、3冊目の単著となる本書は何と「自己啓発本」。発売2カ月を待たずに5刷4万5000部と快進撃中だ。「“勉強する”ということを面白くポジティブに言えないかな、と思ったんです。雲行きの怪しい今の世の中で、世間に迎合も孤立もせずに生きていくためには勉強が必要です」日常の中で「周りのノリ」に合わせることが苦しくなってきたら勉強を始める好機。そして勉強を始めると必ずますます「ノリが悪い人」になる。「日本は同調圧力が強いけれど、たとえば大学教育は安易に同調させないようにするための教育だし、安易に同調しないということが知性の正しいあり方なんです」勉強を進めるにあたり「ツッコミ=アイロニー」と「ボケ=ユーモア」の二方向の方法を説くが、喩えが面白い。「アイロニー」とは、ケーキ・バイキングで盛り上がっている時、感想を問われ「おいしいって答え以外、許されてるの?(笑)」と返し、場を凍らせること。「ユーモア」とは、AとBの恋バナで皆がAを道徳的観点から槍玉にあげている最中「音楽なんじゃない?」と、恋愛の起伏を音楽にたとえる発言をし、周りをポカンとさせること。根拠を疑い見方を変えることで、状況を相対化し、慣れ親しんだ環境からはずれていく。

しかし、勉強で本当に大切なのは次の段階だ。その時の自分の趣味、嗜好、興味、必要等を手掛かりに小さな範囲を決めて新しい物事を学び、少し変身して、また皆のところへ「ノリを良くもできる人(来たるべきバカ)」として戻っていく。その後も脱出と帰還を繰り返すこと。

「締切がないと仕事が終わらないように、範囲を決めないと勉強は進まない。まずこの3冊の本を読み較べる、とか最初の範囲を狭くとることが大事。狭い範囲設定がむしろ生産性に繋がるという発想です」

社会人の論文指導をしていることも執筆を後押ししたかもしれない。

「勉強とは新しい言葉の使い方を学ぶこと。キャリアを積んだ方々は言葉遣いと人生がぴったりくっついている。それを引きはがすにはどうしたらいいか、工夫していますから」

評者:「週刊文春」編集部

(週刊文春 2017.06.08号掲載)

勉強とは、自己破壊である

千葉雅也『勉強の哲学』は、こんな刺激的なフレーズではじまる。『動きすぎてはいけない』で注目された気鋭の哲学者は、自己啓発系勉強本にありがちな、現状の自分に効率よく新しい知識やスキルを付け加える方法などは紹介しない。

まずは、〈勉強とは、別の考え方=言い方をする環境へ引っ越すことである〉として、自分を取り囲んできた環境(会社や学校や友人たち)に順応する言語ではなく、興味を持って得た新たな言語をとにかく使ってみることを勧め、〈深く勉強するとは、言語偏重の人になることである〉と説く。そうして言葉を玩具のように操作できるようになれば、周囲から「ノリ」が悪いと訝られようが、自由に考えられるようになる。そもそも勉強する目的はこれまでの環境から自由になるためなのだから、周囲から浮いても気にしない。

さらに千葉は、〈ノリの悪い語りが、自由になるための思考スキルに対応している〉と喝破し、アイロニーとユーモアという思考方法について解説。その上で、私たちひとりひとりの個性=「享楽的こだわり」にも言及する。

ここまでがこの勉強論の原理編で、後半は実践編となる。どのように勉強を開始すればいいか、千葉は自身の体験もまじえて語り、専門分野への参加の手続きも詳しく案内してくれる。哲学者らしく厳密な言葉によって書かれているが、斬新な視点と丁寧な論旨の展開に何度もうなずき、私は読後、勉強のもつ危険な魅力にあらためて興奮した。

もうお気づきのとおり、この本を読むことは、そのまま哲学の勉強にもなっている。

評者:長薗安浩

(週刊朝日 掲載)
内容紹介
勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。
勉強とは、かつての自分を失うことである。
深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、
それは恐るべき快楽に身を浸すことである。
そして何か新しい生き方を求めるときが、
勉強に取り組む最高のチャンスとなる。

なぜ人は勉強するのか?
勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか?
思想界をリードする気鋭の哲学者が、
「有限化」「切断」「中断」の技法とともに、
独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論。

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』・・・タイトルからしてまず考えさせられますね。実に興味深いです。

真に勉強を深めるために、変な言い方ですが、勉強のマイナス面を説明することになるでしょう。勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。そういうリスクもあるし、いまの生き方で十分楽しくやれているなら、それ以上「深くは勉強しない」のは、それでいいと思うのです。生きていて楽しいのが一番だからです。(p.11)
「深く」勉強することは、流れの中で立ち止まることであり、それは言ってみれば、「ノリが悪くなる」ことなのです。深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。・・・これから説明するのは、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って、「新しいノリ」に変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法です。(pp.12-13)

まさに「ノリ」の話ですね。私もバンドをやっていたのでこのニュアンス分かります。少し理論などがわかってくると「型」にはめておくと結構いい感じなるんですよね。また別の言い方をすると、守破離の「守」~「破」の手前くらいは、やってる方は型にはめていくことが面白いのに対して、周りの者は型にはまっていて面白くないというギャップが出てくる段階でしょうね。

またビジネスでもフレームワークというのがありますが、それは上で私が言っている「型」に近いかもしれません。

勉強の目的とは、これまでとは違うバカになることなのです。その前段会として、これまでのようなバカができなくなる段階がある。まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。勉強とは、喪失することです。これまでのやり方で馬関ことができる自分を喪失する。(pp.13-14)

 

これは分かるでしょうか?かなり経験を積んでないと理解するのは難しいような気がしますね。

単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが第二段階。しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。

いったんノリが悪くなる、バカができなくなるという第二段階を経て、第三段階に至る。すなわち、来たるべきバカの段階、新たな意味でのノリを獲得する段階へと至る。(p.14)

章が進むにつれ、本書のキーワードともいうべき「ノリ」という言葉の意味が変わっていくとのこと。これは興味深いです。

「ノリ」という言葉の意味は、最終的に変化します。バンドで演奏するときのような、集団的・共同的なノリから出発し、そこから分離するようなノリへと話を進めていく。それは「自己目的的」なノリである。(pp.14-15)

ここからが第一章の開始です。

まずは、これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる、という勉強のイメージを捨ててください。むしろ勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブにとらえたほうが、むしろ生産的だと覆うのです。多くの人は、勉強の「破壊性」に向かい合っていないのではないか?勉強とは、自己破壊である。では、何のために勉強するのか?何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?それは、「自由になる」ためです。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。(p.18)
勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではありません。深い勉強なんです。それを本書では「ラディカル・ラーニング」と呼ぶことにしたい。ラディカルというのは「根本的」ということ。自分の根っこのところに作用する勉強、それを、僕にできる限りで原理的に考えてみたいのです。(p.19)
勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。(p.20)
無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。私たちの課題は、有限性(=不自由)との付き合い方を変えることです。有限性を完全に否定するのではありません。有限性を引き受けながら、同時に、可能性の余地をもっと広げるという、一見矛盾するようなことを考えたいのです。(pp.24-25)
私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結び付けている=「共同化」している。そこで、次のように定義しましょう。環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向付け」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。・・・私たちは、何とか生き延びるために、周りに合わせて「しまって」いるものです。(p.26)
環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリ」と表すことにしましょう。ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。流れるように「コード的に行為できる」のが、「ノリがいい」わけです。逆に、コードにそぐわない行為を「やらかして」しまうのは、「ノリが悪い」ということである―ならば、周りから「浮く」ことになります。さらには、異分子として排除されることもありうる・・・・。ノリは、残酷なことに、「ノリが悪いとみなされることの排除」と表裏一体です。(p.27)
環境が変われば、コードが変わるので、ノリが変わる。・・・私たちは、環境によって別の顔を見せる―これは、「キャラを使い分ける」と言われたりしますが、「使う」というより、キャラが「変わる」の方がふさわしいでしょう。外から影響されていない「裸の自分」なんて、あるのでしょうか?私たちはつねに、他者との関係で「そういうノリの人」なのであって、他者から自由な状態なんてあるでしょうか?(p.28)

ある意味、「裸の自分」は朝起きたときの自分なのでしょうね。これも今年読んだ良かった本の中の一つですが、こちらで紹介されている「モーニング・ページ」はそんな「裸の自分」のクリエイティブを引き出していくというのが目的。いろいろとつなげていくと面白いです。

たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。・・・自分は、環境のノリに、無意識なレベルで乗っ取られている。(p.29)
言語を使えている、すなわち「自分に言語がインストールされている:のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。(p.32)

そう考えると、先の「モーニング・ページ」は言語というより、最初はイメージで想起していくことがポイントなのかもしれませんね。それから言語に置き換えていく。

大げさに思うかもしれませんが、言葉のニュアンスの違いには、何か偏った価値観(イデオロギー)が含まれていると捉えるべきです。すなわち、言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境の子度を刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。(p.33)

逆説的に言うと、企業では良い文化を作って、その文化の中でステークホルダーに価値を与えていくわけですから、そういう意味でも社員にそのコードをしっかりと植え付けていかなければならない。となると、言葉から統一していくということにもなるのでしょう。そのあたりを考えると、朝礼で社訓を皆で唱和したりすることは非常に重要だと考えるわけです。古いとかそういう問題なのではないと思いますが、この意義自体を教えずに、行為に焦点を当てるとそれは、やはり今風ではないと言われても仕方がありませんが、この意義は今失われていると思えてなりません。

言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベルで「洗脳」を受けるようなことなのです。これは非常に根深い。言葉jひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。(pp.33-34)
言語それ自体は、現実から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。このことを、「言語の他者性」と呼ぶことにしたい。すなわち言語とは、「現実まるごとに対する他者」なのです。あるいは、リアルなものに対し、言語は「ヴァーチャル」な存在であると言ってもいいでしょう。ヴァーチャルな存在としての言語が、現実まるごとに対する他者として、現実から分離しているのです。(p.36)
人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ(VR)」を生きている。・・・言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。・・・環境においてノっているというのは、言語的なVRを生きているということである。(p.37)
ある環境のノリから抜け出そうとする。その先で可能なのは、別のノリを身につけることです。ノリからノリへの引っ越しです。そうでしかない。何か新しい環境で、また他者依存的に生きる―別のしかたで、他者依存的に生き直すのです。そうでしかない。勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである。(p.40)
ですが、もし、別の会社に転職してそこでまた慣れるのと同じように、たとえば社会学的な見方にただ慣れるというのでは、結局は、別の刷り込みをされただけじゃないのか?そうなのです。それでは、何も本質的な変化になっていないのです。(p.40)

これはリアリティがあります。昨年7月に転職しましたが、そうです。ただ「慣れる」だけではダメなのはなんとなく分かっていたのですが、そういうことなんですね。それでは、本質的な変化になっていないんですね。

以前のノリ1から新しいノリ2へと引っ越す途中での、2つのノリの「あいだ」で、私たちは居心地の悪い思いをする―。以前のノリ1と別のノリ2のあいだで、自分が引き裂かれるような状態。あるいは、2つの環境のコードのあいだで、板挟みになる。(pp.40-41)

そう、転職してずっと違和感を感じてました。逆にこの違和感が気になって仕方がなかったんです。

たんに別のノリにスムーズに適応しようとするのではなく、そのときの違和感に注意する必要があるのです。二つのノリのあいだで、ある出来事が起きる―現実とは別の、ヴァーチャルな次元がきらめくのです。それは、言語の世界です。新たなことを学ぼうとするときの違和感が、言語という存在を迫り出させる。(p.41)
私たち人間は、言語というフィルターを挟んで現実に向か合っています。ですから、新たな環境では、新たな言葉のノリに慣れることが課題となる。ものの名前、専門用語、略語、特徴的な話の持って生き方・・・。その環境ならではの言い方をわざわざしなければならない。これまでのノリならこんな言い方=ものの見方はしない。そういう違和感があるでしょう―「わざわざ言ってる感」がある。これが非常に重要です。自分にとって不自然な言葉づかい―強調しますが、それが、新しい環境におけるものの見方を構築している―は、そう言えと言われるなら、まあ、言えるわけです。言えるには言える。が、言ってるだけだという感じ。言葉が口になじまず、「浮いた」感じがする。(pp.41-42)

まさにそれ・・・、味わいました。いや、まだ味わっているかもしれません。先日読んだ、『実践!フィードバック』では、「アンラーニング」と書かれていましたが、それもなるほどと思いましたが、こちらのこのニュアンスのほうがしっくりきます。「アンラーニング」なんて不可能ですし、転職をして経験値を増やしていくという意識の中では、「アンラーニング」というよりは「リ・ラーニング」のほうがいい気もしますね。

勉強における「わざわざ言っている感」は、次のような認識へと展開するでしょう。違和感のある言葉とである→言葉の用法=意味は変更可能なのだ(器官なき言語)→言語は現実から切り離して自由にできる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる。(p.48)
勉強をするなかでは、言語への違和感が、可能性の空間としての言語のヴァーチャル・リアリティを開くのです。慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へと移ろうとする挟間における言語的な違和感を見つける。そしてその違和感を、「言語をそれ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある。現実に密着した道具的な言語使用から、言語をそれ自体として操作する玩具的な言語使用へと移る。道具的な言語使用がメインになっている自分を破壊する。(pp.51-52)
自分を言語的にバラす、そうして、多様な可能性が次々に構築されては、またバラされ、また構築されるというプロセスに入る。それが、勉強における自己破壊である。二つのノリのあいだに引き裂かれる―それは、自分が言語的にバラされるということ。二つのノリの挟間であなたは、砕け散って、可能性の破片になる。言葉の瓦礫になる。(p.52)

そして著者は、「言葉の不透明性に気づき、言語をわざと操作する意識を持つようになることこそが、どんな勉強にも共通する、一般に重要なことだと思うのです。」と述べています。そもそもこの「勉強」という言葉のスコープをどこまでとして捉えるのかでこの著書の深みも変わってくると思います。ただ、読んでいる最中に、狭義の「学問などを学ぶこと」、広義だと「幅広く経験を積むこと」というのが揺れ動いているように感じ方が変わるのですが、そのあたりも注意しながら読んでいくことでより理解が深まるように思います。

もちろん、フランス料理を勉強して繊細なソースをつくれるようになるとか、社会学を学ぶことでブラック企業の問題を考えられるようになるといった、特殊な課題が勉強にはある。ですがそれと同時に、あらゆる勉強に共通の、言葉への意識を高めるという「一般勉強法」がある。料理や、あるいは美容などの技術を学ぶときにも、独特の概念や語り方による新たな言葉の世界に入るわけです。そのときの、言葉への違和感を大切にしてほしいのです。わざとそういう言い方をしているという感覚です。(p.53)
一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである。(p.53)

続いて、少し見方を変えて、「環境」について書かれています。

どんなにつらい環境でも、自分にはそのノリと癒着してしまっている面がある。環境の問題点を批判し、改善の努力をするにせよ、あるいは、気持ちを切り替えて別の環境へ逃げてしまうにせよ、そうしたアクションは、環境と癒着してしまっている自分の在り方を解体しつつでなければ、結局、その改善したい/脱出したい環境に癒着した自分を、いつまでも引きずることになってしまう。たとえどこへ逃げ出しても、自分の意に反して自分に残存している悪しき環境のノリを、せっかくの新天地で再現してしまうことになります。どんなに批判意識を高めても、そんつらい環境のノリがマゾヒズム的に自分に刻み込まれているという事実を自覚しなければ、その環境をさらに保守することになってしまいます。(pp.54-55)

「言語」として考えていた時は、「アンラーニング」というのに違和感がありましたが、「環境」で考えると「アンラーニング」はまだしっくりきますね。そしてさらに詳しい説明がなされます。

では、どうすれば、環境と自分のこれまでの癒着にメスをいれられるのか?そのためには、ノっている―たとえ環境に批判的であっても、「批判的にノっている」ような―自分を退いて客観視するのです。その場にいながら距離をとっている、「もう一人の自分」というポジションを設定する。それは、言葉を言葉として意識している自分です。(p.55)
通常は、言葉を言葉として意識していいない言語使用がメインです。すなわち、言語が透明な道具として目的的に使われている状態、「道具的な言語使用」であり、それが、あなたと環境の癒着を見えなくさせています。環境においてしっかり「地に足が着いた」言葉づかいができているとき、私たちはいちいち「足もと」を確認しなくても、スムーズに行為できます。しかし、本書では、あえてスムーズに行為できなくなるリスクをとって、足もとを確認せよ、分析せよ、と求めているのです。(p.56)

実に深いですね。私もたまたま昨年転職したのでこのことはすごく実感として分かるのですが、してなければ分からなかったかもしれません。

自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。言語をそれ自体として操作する自分、それこそが、脱環境的な、脱洗脳的な、もう一人の自分である。言語への「わざとの意識」をもつことで、そのような第二の自分を生成する。地に足が着いていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。(p.56)
言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。自分のあり方が、言語それ自体の次元に偏っていて、言語が行為を上回っている人になるということです。それは言い換えれば、言葉遊び的な態度で言語に関わるという意識を常にもつことなのです。深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である。あえてノリが悪い語りのほうへ。あるいは、場違いな言葉遊びの方へ。勉強はそのように、言語偏重の方向へ行くことで、深まるのです。ラディカル・ラーニングとは、言語偏重になり、言葉遊びの力を開放することである。(p.57)

これは先にも書きましたが、実感として感じられるか、それとも机上の論理的に感じるかは大きな違いがあるように思います。ずっと書かれてきた「ノリ」を変えることの難しさ、ちょうど例になった転職でいうと、異なる社風になじむ、さらには以前の経験をも踏まえた新しい自分を創り出すということで、染まることが本質ではなく、まぁ言えば、どんどん多面体な自分になっていてい、見る・見られる角度によって色が変わっているというような感じでしょうか。うーん、とも違うなぁ。交わってグラデーションな部分もあるだろうし、喩えるのは難しいですが、とにかく新しい「ノリ」に対応できる自分が出来上がるというのは大きな成長になっていることであることは間違いないと思います。

そして、「第二章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス」、「第三章 決断ではなく中断」について割愛して、第四章へ。

「まとも」な本を読むことが、勉強の基本である。・・・専門分野に効率的に入門するには、入門書を読むべきです。・・・入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。必要なのは、最初の足場の仮固定です。そして、入門書は、複数、比較するべきである。一冊だけでは、信じ込まないようにしてください。入門書を一冊読んだくらいでわかったと思われては困ります。いろんな角度から、分野の輪郭を眺める必要があるのです。同じ分野の研究者でも、解釈の展開や力点の置き方などは人によって異なります。また、入門書一冊を読んだ直後に、すぐに専門的な本に行くのも無理です。最初の半年から一年くらいの読解力では、入門書を読み比べるのでおそらく精いっぱいだと思います。(pp.175-177)
教科書は、「専門分野の名前 教科書」で検索すれば、紹介している記事が見つかるでしょう。・・・基本書というのは、教科書のように教育目的で書かれたものではないが、その分野の中心的なテーマについて詳しく書かれた重要文献です。各分野において優先的に読むべきなのは基本書である、と知っておいてください。基本書は、教科書よりも上級のレベルです。ですから、勉強の順序としては、複数の入門書→教科書→基本書、となります。基本書とは、まずは、入門書や教科書に重要なものとして繰り返し出てくる文献がそれだと思ってください。また、基本書のブックガイドが専門家のウェブサイトで公開されていることがよくあります。(pp.177-178)
教科書は、基礎から発展的な内容まで網羅的に書かれています。たいてい分厚くて、内容が非常に多いので、最初から最後まで読み通すのは困難と思ってください。まずは教科書は、読み通すものでなく、事典のように「引く」ものと捉える。最初は、目次を眺めるだけでもいい。その分野のテーマや概念が、ざっと分かります。(p.178)
入門書で知ったことについて、教科書で該当するところを「引いて」いるうちに、教科書はあちこちから「モザイク状」に読んだ状態になります。入門書をもとに、徐々に地図を塗りつぶしていくイメージです。そうなってから、あらためて最初から通して読んでいき、全体の流れを確認する。しかしそのときに、漏らさずにすべてを読もうとしなくてもかまいません。なぜなら、「完璧な」読書など不可能だからです。(pp.177-178)
読書の完璧主義を治療するにあたって、フランスの高名な文学研究者であるピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』は非常に役に立つ本です。この本でバイヤールは、多様な読書を肯定しています。読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完璧に一文字一文字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることは部分的です。通読しても、「完璧に」など読んでいないのです。(p.179)

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この本、前にも読んだように思うのですが、改めて読んでおきたと思います。

個人的に教師についていても、一人で勉強する方法を知らなければ、勉強は深まりません。授業では、学ぶべきことをすべて教えてくれるわけではありません。勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話は補助的なものです。授業を聞くときのポイントは、多くを吸収しようとすることよりも、教師が「いかに工夫して少なく教えているか」に敏感になることです。情報の有限化がポイントなのです。教師は、まずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。その有限化された情報を軸として、自分でさらに本を読み、調べながら勉強を深めていく。教師とは、有限化、あるいは切断の装置です。独学するときには、入門書がこうした教師の役割を果たすことになる。(p.182)
勉強をイヤにならずにならずに続けるには、「完璧主義」を避ける必要がある。いつでも不完全な学びから、別様に不完全な学びへと移っていく。仮固定から仮固定へ。(p.183)
勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である。・・・勉強の足場とすべきは、「専門書」です。もっと限定すれば、学問的な「研究所」です。「書物には、専門書とそれ以外がある」、または「研究所とそれ以外がある」という二分法で考えてください。「それ以外」は「一般書」」と呼ばれます。実は、アートでも金融でもスポーツ科学でも、プロと言われる人たちは、そういう目で本屋さんの棚を見ています。(p.185)
ほとんどの本は一般書なので、本学的に勉強を始めるとなったら、意識的に専門書を探しに行くことが必要なのです。いまの国際政治はこうなっているという解説とか、ビジネスのノウハウのような本は一般書であり、その妥当性は、より専門的な知識によって吟味される必要があります。エコノミストが書いた経済予測の本も一般書で、慎重に疑う必要がある。何か事件を取材したジャーナリズムの本も、歴史学・社会学の厳密さで書かれているわけではないと想定すべきで、一般書に区分されるでしょう。以上のような本は、おおよその情報源にはなるものの、その内容に決して「飛びついて」はいけないのです。また、一般書には、厳密であるどころか、独断的な価値観を示しているものも多い。特殊な成功談を一般化しているもの、「~だけすればよい」といった極端なアドバイス・・・そういうものは、読み物としておもしろかったりしますが、勉強を進めるための文献ではありません。(pp.186-187)

そうなんです。本・・・選ぶところから始まっているんですよね。でも、平積みなどされていると、読んでしまうのですが、本当に読むべきものかどうか、これまでそれなりに読んできてますから、だいたい最初を読むだけでおおよそ分かりますしね。いまもそれなりに読み方もコントロールしていますが、さらにメリハリをつけて読んでいくようにしたいと思います。

なんとなく読み散らかしているだけでは、自分が考えたことなのか、どこかに書いてあったのかわからなくなっています。そうすると、他人のアイデアと自分のアイデアがごっちゃになり、気づかないうちにパクリをしてしまうということが起こりかねない。どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。これは個性的なアイデアを育む上で、ひじょうに大事なことです。ある概念や考え方が、「誰のどの文献によれば」なのかを意識し、すぐに言えるように心がけてください。そのために、読書ノートをつける必要がある。何という文献に、文字通りにどう書いてあったのか、何ページなのかを明確に書き、それと区別して、自分の理解をメモしておく。勉強を続けるというのは、そのように「出典」―文献の名前とページ数、さらに出版年など―を明記した読書ノートをつけ続けることです。自分の知識を、出典に紐づける。(p.199)

この作品・・・・237ページなんですが、読むのにさすがに時間がかかりました。考えながら、批判もしながらしっかりと読みましたが。

その価値のある本だと思います。

新年1冊目としてはかなりタフな作品でした。

去年はなんとか200冊の読書ブログを書きましたが、今年はもう少し厳選して、原著など専門書ももう少し読むようにしていきたいと思っています。

ですので、質の高い50冊についてはしっかりブログも残し、あとのものは読み流すような感じでいきたいと思っています。

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