いま世界の哲学者が考えていること


いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること
著者:岡本 裕一朗

メディア掲載レビューほか
世界はどうなるか20代のころは、「現代思想」や「エピステーメー」などの雑誌を、「流行通信」や「ブルータス」と同じような気分で買い、最新流行の思想をチェックしていた。30年以上も昔のことだ。書店も思想・哲学の棚は熱気を発していた。ニューアカ・ブームなんていわれていた時代だ。 最近はどうなっているのだろうと思い、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』を読んでみた。世界の哲学の最前線について、わかりやすく、網羅的に紹介した本である。門外漢に向けたガイドブックだ。 いやはや、世界は(あるいは人類は)とんでもないことになっています! 人間が置かれている環境がこの数十年で大きく変わり、哲学者たちが考えるべき深刻な課題もたくさん出てきている。 たとえばIT革命とBT(バイオテクノロジー)革命。IT革命で便利になったことは多いが、世の中が監視社会化するなどの問題も抱える。人工知能が進化して人間の能力を超えたとき、人類は、そして世界はどうなるのか。 BTによって医療は急速に進歩している。ぼくらの寿命は延び続け、不老不死へと近づいている。「生」と「死」、「人間」という概念そのものが変更を強いられている。 そのほか、資本主義は21世紀でも通用するか、宗教はどうなるのか、地球環境はどうなるのか、考えるべきことがたくさんある。 本書を閉じて思った。日本の哲学者たちも社会の諸問題について、積極的に発言して欲しい。メディアも哲学者の意見をもっと紹介して欲しい。彼らの意見は、ぼくらが考える補助線になるのだから。評者:永江朗(週刊朝日 掲載)内容紹介
21世紀最先端の哲学者が描き出す人類の明日とは?
●IT革命とBT革命が人類の未来を変える?
●世界が再び宗教へと回帰していくのはなぜなのか?
●資本主義は21世紀でも通用するのか?
――世界の難問がこの一冊でクリアに解ける!マルクス・ガブリエル、カンタン・メイヤスー、リチャード・ローティ、ユルゲン・ハーバマス、ダニエル・デネット、ニック・ボストロム、ベルナール・スティグレール、トマス・マシーセン、マウリツィオ・フェラーリス、ピーター・スローターダイク、アマルティア・セン、ダニ・ロドリック、チャールズ・テイラー、ジル・ケペル、ビョルン・ロンボルク、ブライアン・ノートン、ベアード・キャリコット、ウルリッヒ・ベック……登場するのは世界最前線の哲学者たち。

いつまでも「哲学=人生論」と思っているのは日本人だけ!

◎ゲノム編集、生命延長……人間の身体はどこまで改変できるか
◎脳科学が犯罪者になる人間を予測する?
◎人類絶滅以後の世界を思考する「21世紀の時代精神」とは
◎IT社会の実体――シノプティコン(多数による少数の監視)とはなにか
……いま、世界の哲学者が考えている人類の未来の姿とは?

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] タイトルそのままです。
[目的・質問] 世界の哲学者が考えていることを知ります。
[分類] 104:論文集. 評論集. 講演集

歴史を眺めてみれば、自ぢが大きく転換するとき、哲学が活発に展開されているのが分かります。しかも、そうした時代の転換には、科学技術の状況が密接に関係しているのです。(p.1)
20世紀後半に起こったIT(情報通信技術)革命やBT(生命科学)革命は、今までの社会関係や人間関係の在り方を根本的に変えていくように見えます。また、数百年続いてきた資本主義や、宗教からの離脱過程が、近年大きく方向転換しつつあるのは、周知の事実となっています。さらに、近代社会が必然的に生み出してきた環境問題も、現代においてのっぴきならない解決を迫っています。こうした状況をトータルに捉えるには、どうしても哲学が必要ではないでしょうか。(p.2)
物事を考えるとき、哲学は広い視野と長いスパンでアプローチします。日々進行している出来事に対して、一歩身を引いたうえで、「これはそもそもどのような意味なのか?」「これは最終的に何をもたらすのか?」という形で問い直すのです。一見したところ、悠長な問いかけのように感じますが、時代がドラスティックに変化するときには、こうした哲学の姿勢が欠かせません。(p.2)

「物事を考えるときの広い視野とスパン」というのは、リベラルアーツ全般に言えることでしょう。

さて、改めてこの本での「哲学」の対象領域について、下記のように定義しています。

ここで「哲学」をどのように取り上げればいいのでしょうか。本書で指針としたいのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが、1982年に発表した論文で語った文章です。彼は亡くなる2年前に、カントの『啓蒙とは何か』(1784年)について次のように書いています。

「啓蒙とは何か」という問いを発した時、カントが言わんとしたのは、「たった今進行しつつあることは何なのか、われわれの身に何が起ころうとしているのか、この世界、この時代、われわれが生きているまさにこの瞬間は、いったい何であるのか。」ということであった。(中略)われわれは何者なのか―歴史の特定の瞬間において。

・・・フーコーはカントの名前を使いながら、実は自分自身の問題を表明しているのです。このフーコーの表現を、本書の方針にしたいと思います。(pp.21-22) 

19世紀の初頭に、ドイツの哲学者であるヘーゲルは、哲学に対して「ミネルバのフクロウ」という比喩を使いました。『法哲学』(1821年)の序文において、「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏とともに飛び立つ」と書いたのです。そのレトリックでヘーゲルが述べようとしたのは、哲学が「自分の生きている時代を概念的に把握する」ということです。自分の生きている時代(「われわれは何者か」)を捉えるために、哲学者は現在へと到る歴史を取り直し、そこからどのような未来が到来するかを展望するのです。この哲学者の問いを、本書では具体的な状況に沿って解明したいと思います。(p.22)
哲学のグローバリゼーションは、その次のステップに進みつつあるように見えます。20世紀末にいったんアメリカへと向かった哲学の潮流は、21世紀を迎えると、再び逆流し始めています。現在では、グローバル化を受け入れた後で、再び独自の哲学形成に着手しているように思えます。(p.27)
哲学の世界的な潮流を考えるとき、1960年代ごろまでは、およそ3つに分類されていました。一つがマルクス主義、二つ目が実存主義、3番目が分析哲学です。これらはだいたい地域的にも分けられ、マルクス主義はドイツ、実存主義はフランス、分析哲学はイギリス・アメリカに配置されていました。・・・ところが、この三潮流は、その後大きく変容していきます。・・・実存主義とマルクス主義が哲学の世界的な潮流としては勢力を失ったのに対して、アングロサクソン系の分析哲学は、その内容を変容させながら、現在でも現代哲学の中心的な勢力を保っています。そのため、今ではドイツやフランスの哲学者たちでさえ分析哲学を無視することができないどころか、むしろ分析哲学に積極的に合流しつつあるのです。(pp.30-32)
17世紀の認識論的転回以後、近代哲学が数百年続きましたが、19世紀末頃から20世紀初めにかけて、言語論的転回が引き起こされたのです。こうして、主観―客観関係における「意識」ではなく、むしろ「言語」を分析することが、哲学の主要なテーマとなりました。20世紀の後半において、英米では分析哲学が展開され、フランスでは構造主義やポスト構造主義が流行し、ドイツでは解釈学やコミュニケーション理論などが提唱されましたが、それらは総じて言語論的転回の一環として理解されることになります。(p.35)
しかしながら、21世紀を迎える頃には、ポストモダンの世界的な流行も終息し、「言語論的転回」に代わる新たな思考が、模索されるようになりました。(pp.39-43)

  1. 自然主義的転回(認知科学的に「心」を考える)
    代表的な哲学者:チャーチランド、クラーク
  2. メディア・技術論的転回(コミュニケーションの土台になる媒体・技術から考える)
    代表的な哲学者:スティグレール、クレーマー
  3. 実在論的転回(思考から独立した存在を考える)
    代表的な哲学者:メイヤスー、ガブリエル
ポスト「言語論的転回」を考えるために、あらためて「言語論的転回」の歴史的な意味を確認することから始めましょう。手始めとして、ミシェル・フーコーの『言葉と物』(1966年)に目を向けることにします。この書において、フーコーは「エピステーメー」という言葉を使いながら、それを「知の可能性の制約(=知を可能にする条件)」と見なし、次のように説明しています。

ある文化はある時代においては、つねにただ一つの「エピステーメー」があるにすぎず、それがあらゆる知の可能性の制約を規定する。それが一個の理論として明示される知であろうと、実践のうちでひそかに投資される知であろうと、このことに変わりはない。

 

もともとエピステーメーという言葉は、ギリシア語でドクサ(臆見)に対置され、「正しい知識」を意味していました。それをフーコーは、血が活動するための基盤や台座という意味として使い、認識が可能になる「秩序の空間」と考えたのです。このとき注目したいのは、「あらゆる知の可能性の制約」という言葉です。(pp.45-46)

フーコーの場合、エピステーメーは、時代によって異なり、歴史的に変化するのですが、それが「知を可能にする制約」という点でア・プリオリ(先天的)と言えます。ある時代に生きる人々は、そうしたエピステーメーを否応なく身につけ、それを通して知識を形成せざるを得ません。そうした「言葉」を通して、物の認識が可能になるわけです。こうした「歴史的ア・プリオリ」という概念を提示することによって、フーコーは言語論的転回の推進者と見なすことができるのです。(p.47)

ポスト「言語論的転回」として、フランスのドブレによって、「メディオロジー的転回」が新たに提唱。ドブレのメディオロジーの構想を受けて、それを人間の存在様式から根本的に構想しなおしているのが、ベルナール・スティグレール。

スティグレールによれば、「技術」は人間を人間たらしめる最も本質的なものですが、哲学は今まで「技術」に目を向けることなく、視野の外に置いてきました。しかし、言語にしても、記憶技術であって、「技術」の観点から新たに捉えなくてはなりません。「技術」は、いわば人間の成立条件をなしているのですから、「技術」を考察することなくして、人間を理解できないのです。(pp.48-49)

そして、問題は今後は「言語」から「メディア」に展開していきます。

ハインリッヒ・フォン・クライストの有名な書簡のなかで「カントによって引き起こされた危機」として、次のように書かれています。

あらゆる人間が眼の代わりに緑色の眼鏡をかけていれば、それを通して見える対象は緑色であると判断するに違いないだろう―そして眼は人間に諸事物をあるがままに示しているのか、あるいは諸事物ではなくて眼に属している何かを諸事物に付け加えているのではないかを、人間は決して決めることはできないだろう。悟性の場合がそうである。われわれが真理と呼んでいるものが本当に真理であるのか、それともただそう思われるだけなのか、われわれに決定することができない。(pp.50-51)
この書簡のなかで想定された「緑色の眼鏡」が、まさしくメディア(媒体)なのです。カントの場合には、「悟性のカテゴリー」がそれに当たりますが、20世紀の言語論的転回の後では、「言語」がそうしたメディアになりました。そして、今や21世紀にのポスト「言語論的転回」において、メディア(伝達媒体)として注目されたのが、音声言語や手書き文字、書物や映像、コンピュータなどの伝達技術に他なりません。(p.51)
「思弁的実在論」にしても「新実在論」にしても、現在あえて「実在への転回」を意図するのはなぜでしょうか。注目したいのは、実在論的転回を唱える思想家たちが、二つの重要な傾向をもっていることです。一つは、彼らが総じて、「ポストモダン以後」を明確に打ち出していることです。20世紀末に流行したポストモダン思想に対して、その終焉を突き付けたわけです。もう一つは、ポストモダン思想を、歴史的により広い視野から捉え直したことにあります。実在論者たちによれば、ポストモダンにおいて頂点に達する言語論的転回は、実を言えば、すでにカントの「コペルニクス的転回」から始まっています。これを示すために、フェラーリスは「フーカント(フーコー+カント)」という言葉で茶化しています。(p.55)
カンタン・メイヤスーは一躍、現代思想界の中心に立つようになりました。では、『有限性の後で』で彼は、何を語ったのでしょうか。彼の基本的な視座となっているのは、カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察です。その意味をかれは、次のように説明しています。

私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り換え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことができる。

メイヤスーによれば、こうした「相関主義」は、20世紀の現象学であれ、分析哲学であれ、免れてはいません。そして、言うまでもなく、言語論的転回やポストモダン思想も例外ではありません。メイヤスーはこうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。その意味で実在論を目指すのですが、かつての「素朴実在論」とは区別されます。むしろ、彼が、「実在」と考えているのは、数学や科学によって理解できるものです。(pp.57-58) 

『なぜ世界は存在しないのか』において、ガブリエルは「新実在論」を「ポストモダン以後の時代に対する名前」と呼んでいます。ガブリエルによれば、ポストモダンの問題点は、「構築主義」にもとづくところにあります。そして、この「構築主義」の源泉は、メイヤスーと同じように、カントにあるとされています。

カントの主張によれば、私たちは世界をそれ自体があるがままに知ることができない。私たちが何を知ろうとも、ある点では、いつも人間によって加工されている、とカントは考えた。

こうした思考を説明するため、ガブリエルはクライストの「緑色の眼鏡」の例を引き合いに出した後、次のように続けています。

構築主義はカントの「緑色の眼鏡」を信じている。これに、ポストモダニズムは次のように付け加えた。私たちが身につけているのは、ただ一つの眼鏡ではなく、多くの眼鏡である。科学、政治、愛の言語ゲーム、誌、多様な自然言語、社会的な規約、などである。

こうしたポストモダン的な「構築主義」に対して、ガブリエルは、「真実在論」を提唱するのですが、それはどのような思想なのでしょうか。それを理解するために、ガブリエルが提唱した具体的な例を取り上げてみましょう。彼は次のようなシナリオを語っています。

アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ているのに対して、私たち(あなたと私)はナポリにいて、ベスビオス山を見ている。

・・・ガブリエルが提唱する「新実在論」は、少なくとも、4つの対象が存在すると考えます。①ベスビオス山②ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの観点)③ナポリから見られたベスビオス山(あなたの観点)④ナポリから見られたベスビオス山(私の観点)です。彼は、これらすべてが存在すると考えるだけでなく、さらには「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実である」と述べています。(pp.60-61)

 

冒頭で、「物事を考えるとき、哲学は広い視野と長いスパンでアプローチします。」というのがありましたが、このあたりを読んでいるとまさにそう感じます。私の研究分野における「経営」、実践の場である「ビジネス」においても、この『物の見方』を変えるだけで全くすべきことが変わってくる。たまたまですが、自分の生き方においても少し自分なりの視点をずらすだけで、すんなりと答えが出たり、自分なりの強い納得が得られたりというようなことがありました。

この本を読みながら、あらためて「哲学」を勉強することの素晴らしさを感じています。先日来、非常にストレスのある毎日だったのですが、考え方を少し変えるだけで心もスッキリしたり、そう考えると「哲学」と「心理学」の共通性を感じたりもしながら、知的興奮してみたり。深い、本当に深い。

クラークとチャーマーズが提唱しているのは、「心」を頭の中に閉じ込めず、むしろ体やその周りの環境との相互連関において理解しよう、というものです。つまり、論文のタイトルにもなっていますが、「拡張された心」というテーゼです。こうした立場を、彼らは能動的外在主義と名付けています。心の在り方や働きを頭の中に閉じ込める「内在主義」ではなく、自分の身体の周りの環境と連結し働く「外在主義」なのです。(p.68)

そして、クラークはこの考え方を次のように力説しているとあります。これもわかり易いですが、実に奥行きのある文章です。

脳は身体化された活動のコントローラーだと考えても、それ以上の実りはないと思われるかもしれない。だがこの小さな視点の転換は、心の科学を構成していくに当たって大きな影響を及ぼす。実はこのことによって、知的行動についての考え方を全面的に刷新する必要が生じるのである。われわれは以下のような考え方を捨て去る必要がある。(デカルト以来一般的な)心の領域と身体的の領域の区別。知覚./認知/行為を整然と分割する線。高次レベルの推論を働かせている脳の執行中枢。そして何より、思考と身体化された行為とを人為的に分離する研究手法を捨て去る必要があるのだ。そうして現れるのは、まさしく新しい心の科学である。(p.69)

こうしてクラークの議論は、人間や環境、そして社会に対する従来の理解を、根本的に覆すものになったと言っています。そして、彼が打ち出した考えは、哲学に対して新たな視点を提示するだけでなく、人文科学や社会科学にも新たな可能性を開きつつあるとも書かれていますが、先にも述べたように経営学を研究している私も、まさに新しい視点をいただいたような感覚です。

ここまでが第1章です。読み応え・・・ありますね。さらに理解を深めるために次の書籍が紹介されています。

第2章は、「IT革命は人類に何をもたらすのか」です。

20世紀の後半、人類史を決定的に転回させる、2つの技術的な変化が起こりました。一つは、BT(バイオ・テクノロジー)革命、もう一つはIT(インフォメーション・テクノロジー)革命と呼ばれています。始まった当初、この革命がどんな地平を切り拓くのか、よく分かりませんでした。しかし、21世紀になると、その射程が少しずつ見えてきました。(p.76)
「監視社会」という言葉を、小説の世界ではなく、哲学において鮮明に打ち出したのは、フランスのミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰』(1974年)です。フーコーはこの書で、イギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」にもとづいて、近代社会のあり方をパノプティコン社会と見做したのです。・・・フーコーによれば、刑務所だけでなく、近代社会全体がこうしたパノプティコン型をしているのです。「現代の税制、精神病院、情報ファイル、テレビ網、その他われわれを取り巻く諸々の技術も、パノプティコンを応用し具体化したものです」。このフーコーの考えからすると、近代社会だけでなく、現代もまた「パノプティコン社会」と呼ぶことができそうです。このパンプティコン社会を理解するとき、重要な特徴が二つあります。一つは、「監視する者」と「監視される者」の非対称性です。「監視される者」は常に見られ、その行動が詳細に記録されます。それに対して、「監視する者」は、姿を消し相手からは見えません。そのため、人々は監視の目を常に意識し、生活することになります。もう一つの特徴は、「監視」によって人々が規律訓練(あるいは調教)されることです。いつでも監視されているという意識があるために、人々は秩序を乱したり、自分勝手な行動をとったりしなくなります。そんなことをすれば、社会から排除されることになりますので、社会でうまくやっていくために、従順な「主体=臣民」となっていくのです。(pp.89-91)

ものすごくリアリティがありますね。こうやって、今私はブログに文章を打っているわけですが、「監視されている」ほどではありませんが、このインターネットのログはどこかに記録されているわけで、このログを辿って行動分析がされていたりするわけです。そして、いろいろなサイトで、勝手にAIが分析して、クライアントにとって費用対効果が良いと思われるという意図で企業が出稿し、さらに広告代理店がいちばん儲かるというフィルターを通って、バナーなどの広告が出てきているわけです。

 

スウェーデン出身のオックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムは、2014年に『スーパー・インテリジェンス』を出版しています。・・・その中で彼は、次のように語っています。

いつか私たちが、一般的知性において人間の脳を凌駕する機械の脳をつくるならば、その時にはこの新しいスーパー・インテリジェンス(超知性・超知能)はきわめて強大になるだろう。そして、ゴリラの運命が今、ゴリラ自身というよりも、私たち人間にいっそう依存しているように、私たち人間という種の運命も機械のスーパー・インテリジェンスのアクションに依存することになるだろう。

つまり、人間の知性(知能)を超える機械の「スーパー・インテリジェンス」が、「技術的な特異点」において出現するわけです。こうした予想は、荒唐無稽な妄想というべきでしょうか。しかし、人工知能の発達を顧みると、あながち間違っているとは言えません。(pp.113-114)

日本語版は出ていないんでしょうかね・・。

マーティン・フォードは、『テクノロジーが雇用の75%を奪う』(2009年)のなかで、経済学者によって生み出された「ラッダイトの誤謬』という概念を取り上げて批判しています。この概念は、1811年に起こった「機械打ち壊し運動」(ラッダイト運動)が間違いであったことに由来しています。つまり、機械化が進んだからといって、経済全体に及ぶ組織的な雇用喪失には決して至らないというわけです。しかし、フォードによれば、この概念(ラッダイトの誤謬)は、過去には妥当だったかもしれないが、「技術的特異点」を迎えたとき、同じように否定できるかどうかはわからない、というのです。(p.117)

さて、話題はいろいろと進みながら、資本主義へ・・・

マルクスが資本主義の崩壊を予言したとき、想定していたのは19世紀の「産業資本主義」でした。ところが、資本主義はマルクスの想定を超えて生き延び、20世紀を迎える頃には「金融資本」と結びついた「帝国主義」が成立し、さらに21世紀になると新たな段階に到達しました。その新たな資本主義を、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは2000年に出版した書物で「帝国」と呼びました。その書物の冒頭で、彼らは「帝国」の特徴を次のように描いています。

<帝国>が、私たちのまさに目の前に、姿を現している。この数十年のあいだに、植民地体制が打倒され、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに、私たちが目の当たりにしてきたのは、経済的・文化的な交換の、抗しがたく不可避的なグローバリゼーションの動きだった。市場と生産回路のグローバリゼーションに伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、一言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ。<帝国>とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである。

ここでネグリとハートが「帝国」と呼んでいるのは、具体的には、20世紀末に進展したグローバリゼーションに対応しています。(pp.199-200)

トルコ出身の経済学者で、現在はプリンストン高等研究所の教授であるダニ・ロドリックが、2011年に『グローバリゼーション・パラドクス』を出版し、グローバリゼーションにどう対処すべきか、議論を展開しています。彼によると、次の3つの道(「トリレンマ」)が可能であり、私たちはこの中から選択しなくてはならないのです。

国民民主主義とグローバル市場の間の緊張に、どう折り合いをつけるか。われわれは3つの選択肢を持っている。国際的な取引費用を最小化する代わりに民主主義を制限して、グローバル経済が生み出す経済的・社会的な損害には無視を決め込むことができる。あるいは、グローバリゼーションを制限して、民主主義的な正統性の確立を願ってもいい。あるいは、国家主権を犠牲にしてグローバル民主主義に向かうこともできる。これらが、世界経済を再構築するための選択肢だ。選択肢は、世界経済の政治的トリレンマの原理を示している。ハイパーグローバリゼーション、民主主義、そして国民的自己決定の3つを、同時に満たすことはできない。3つのうち2つしか実現できないのである。

つまり、①「もしハイパーグローバリゼーションと民主主義を望むなら、国民国家はあきらめなければならない」。あるいは、②「もし国民国家を維持しつつハイパーグローバリゼーションも望ながら、民主主義のことは忘れなければならない」。そして、③「もし民主主義と国民国家の結合を望むなら、グローバリゼーションの深化にはさよならだ」。問題は、この3つの選択肢(トリレンマ)のうち、どれが望ましい選択なのか、ということです。・・・ロドリックは、結論的に言えば、③を採用し、その政策を「賢いグローバリゼーション」と呼んでいます。(pp.205-207)

話は、仮想通貨に展開します。

 

ビットコインは、いかなる意味で「通貨」なのでしょうか。それを理解するには、フェリックス・マーティンが出版した『21世紀の貨幣論』(2013年)が参考になるかもしれません。マーティンによると、貨幣の本質と起源については、「標準的な過ち」が長い間続いてきました。それは、物々交換では効率が悪いので、あるモノ(実際には金や銀など)が支払い手段として広く一般に受け入れられた、というものです。この考えは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスにも、近代の哲学者ジョン・ロックにも、経済学者アダム・スミスにも共通しています。この考えによれば、おカネは「モノ」、つまり商品世界の中から交換の手段とするために選ばれた商品だとされます。けれども、こうした貨幣論では、最近のビットコインは理解できないのではないでしょうか。しかしながら、それ以前に、ただの紙切れがどうしておカネとして意味を持つのか、その理由も分からないでしょう。それに対して、、マーティンが通貨の本質と考えるのは、まったく別のところにあります。彼は、通貨を「実体的な裏付けのない表象的なもの」と規定し、「通貨の根底にある信用と精算のメカニズムこそが、マネーの本質である」と述べて、標準的な貨幣論との違いを次のように強調しています。

このもう一つの貨幣論の中心にあるもの、原始概念といってもいいものは、信用だ。マネーは、交換の手段ではなく、3つの基本要素でできた社会的技術である。基本要素の一つは抽象的な価値単位を提供することである。2つ目は、会計のシステムだ。取引先から発生する個人や組織の債権あるいは債務の残高を記録する仕組みのことである。そして3つ目は、譲渡性である。原債権者は債務者の債務を第三者に譲り渡して、別の債務の決済に当てることができる。

こうした3つの基本要素を持つならば、通貨が金や銀といった実体的な素材を持つことは必要ないわけです。そして、ビットコインがこの要素を満たしていることは言うまでもありません。とすれば、ビットコインは、通貨としての可能性が大きく広がっているのではないでしょうか。(pp.211-213)

シュンペーターの「イノベーション」概念は、最近でも注目されていますが、この概念は、最近でも注目されていますが、この概念がどこへ導くのかについては、あまり強調されていません。シュンペーターによれば、資本主義はイノベーションによって成功するにもかかわらず、存続できず崩壊するに至るのです。この奇妙な逆説について、どう考えたらいいのでしょうか。(pp.222-223)

最後に、「宗教」「環境」についても言及されていきます。多岐にわたる参考文献が紹介されていますので、これらを紹介しておきます。

非常に視野の広がる良書でした。

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