講座・企業家学:近江兄弟社 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

<第6回>
近江兄弟社 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
スチュアードシップに基づく相互扶助の社会経済システムの構築を目指して
(法政大学人間環境学部教授 長谷川直哉先生)
場所:大阪企業家ミュージアム(11月5日)

実はメンソレータムはロート製薬で、近江兄弟社はメンターム。
ご存知でしたか?

近江兄弟社の昔からの企業存在理由・・・それはまさにCSRやスチュワードシップを体現した形と言えるのではないか。そういったメッセージでした。

近江兄弟社の創業者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年にアメリカ合衆国カンザス州に生まれ、1905年に滋賀県立商業学校英語教師として赴任しました。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、ピューリタン的信仰をもつ模範的なキリスト教信者でした。来日の一番の目的も宣教活動でした。

あまりのヴォーリズの影響力に排斥活動が起こり、英語教師は解職となりましたが、日本に残りヴォーリズ合名会社を設立し、近江基督教伝道団「近江ミッション」も設立しました。

ヴォーリズ合名会社の利益は、近江基督教伝道団へ渡り、活動資金として使用されていきました。

つまり、利益を得ることは悪いことではない。その利益をどう使うか。それこそが企業の目的であるということを考えさせられました。

同じようなことが、松下幸之助さんも言われていますので、引用します。(引用元:松下幸之助.com

どのような社会情勢にあっても、企業は適正な利益をあげ、それを国家に税金として還元していくことが義務であり、使命である。世間から期待される商品を提供することができない企業は、社会から報酬を得ることができず、存在する価値がない――。この幸之助の揺るぎない信念を、企業の社会的責任が重要視される現代の経営において、否定する経営者はいないでしょう。
幸之助は、この「利益は報酬である」というみずからの信念のもとに仕事に精励することを、ともに働く従業員に要望し、知恵を集め、力をあわせ、成果をだし続けました。そうして松下電器の独自の企業文化、伝統や歴史といったものが創りだされていったのです。
幸之助がみずからの実体験をもとに生みだした経営哲学をまとめた書として『実践経営哲学』があります。そのなかで幸之助は次のように記しています。「人びとが物をある価格で買うのは、その品物にその価格以上の価値を認めるからである」「百二十円の価値のある製品をいろいろ努力して九十円の原価でつくり、それを百円で供給する。そういう努力、奉仕に対する報酬が、十円の利益として買手から与えられる」。ここにも幸之助の利益観が明確に示されています。

このあたりは、まさに「CSR」や「スチュワードシップ」そのものであり、日本の企業においては、企業存在の前提として根付いていたものだった思われます。

 

あらためて、スチュワードシップについて勉強しておきたいと思います。

日経新聞記事

wikipedia

また、このヴォーリズさんですが、もともと建築家の勉強されており、日本にもヴォーリズ建築として、彼が設計した施設がいくつも残っています。

建築作品一覧

 

さて、この「講座・企業家学」ですが、上期はヨーロッパの企業家、そして下期は日本の企業家ということであと5回、講義を受けることになっています。

特に今回は、企業家の企業までに至る思いが、そのまま企業理念として盤石のかたちとなっているパターンで、非常にインパクトがありました。普通は最初からそこまで考えて行われている場合は少ないように感じますが、近江兄弟社に関しては、最初からキリスト教宣教への資金捻出による社会貢献というスタンスで、大いに感銘を受けました。

また、長谷川先生からも「報徳主義」という言葉が何度も出ていましたが、ヴォーリズの考えはそこにも通じるもので、ある種日本的であるというあたりも納得感がありました。

ちなみに報徳思想とはwikipedeiaでは、次のように書かれています。

報徳の教えとは、二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出した、豊かに生きるための知恵である。神仏儒を究極的には一つにいたる異なる道に過ぎないと位置づけ、神仏儒それぞれの概念を自由に組み合わせて説かれている。そのため報徳の教えを報徳教と呼ぶことがあってもそれは宗教を意味するものではない。
報徳の教えの中心的概念は大極である。この大極にそった実践を行うということが報徳教の根幹をなす。二宮尊徳はこの大極を『三才報徳金毛録』のなかで円を描くことによってしめしている。この円を分けることにより、天地・陰陽などの区別がうまれる。つまり、大極とは、すべてのものが未分化な状態、一種の混沌状態をさす。
大極はつねにそこにあるものであるため、人間が何をしようがつねに大極とともにある。しかしながら、人間は我であるため、つねに大極と何らかの関係をとらなければならない。そこから大極に対して積極的に向かう姿勢である人道と大極に消極的に向かう天道の区別が生まれる。
天道にのみそって生きるとき、我である人間を支配するものを人心とよび、人道にそって生きるとき我を支配するものを道心という。人心は我欲にとらわれたこころであり、欲するばかりで作ることがない。このような心の状態でいる限り人間は豊かになることができない。道心にそった生き方をして初めて人間は人心への囚われから解放され、真の豊かさを実現できるのである。
ここで重要なのは、道心にそった生き方というのが何処までも実利的・実用的に説かれているところである。道心は、それが善だからなどの道徳的な理由で選択されるべきものなのではない。報徳教は単に、人心に従えば衰え朽ち、道心に従えば栄えるという道理を説くに過ぎないのである。

非常に、いろいろと気づかされる、勉強になるセミナーでした。
ありがとうございました。

 

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