哲学のメガネ

哲学のメガネ

哲学のメガネ
著者:三好 由紀彦

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] 図書館での新着で発見!
[目的・質問] 哲学の眼で世界を見る・・・少しでもマスターできるだろうか・・・。
[分類] 130:西洋哲学

哲学とは時代の流れや諸科学の成果によって影響をうけたり衰退したりするものではない。むしろそのような事態から隔絶した、あるいはすべての学問の前提となる学問こそが哲学なのである。(p.3)

200年以上前にヘーゲルも認識者と認識対象の関係についてこう語っている。(p.30)

 

認識が絶対実在を手に入れる道具であるとすれば、すぐ思いつくのは、或る道具を或ることに適用すると、もはや、そのことをそれ自身で在る通りにして置かないで、それに或る形を与え、それを変えようとすることになるからである。もしくは、認識がわれわれのはたらきの道具ではなく、言わば、受動的な媒体であり、この媒体を通じて真理の光がわれわれのところにやってくるとしても、そのときわれわれはまた、真理をそれ自体在る通りにではあく、この媒体を通じ、また媒体の中に或る通りに受けとることになる。(G.W.F.ヘーゲル「精神現象学」樫山欽四郎訳)
すべての学問はその探求すべき対象や世界がすでにあることを前提として、かつその探求する対象に自分自身も含まれたうえで探究せざるを得ない、と言うことなのである。(p.31)
われわれの経験の奥底には、どのような方法を駆使してもそれ以上遡ることのできない大前提が横たわっているのだ。それはわれわれがこの世界に現われた瞬間から与えられた「絶対的な大前提」なのである。(p.32)
われわれの認識のまなざしは決して、自らの前提そのものを見ることはできない構造になっている。「自分の眼を自らの眼で見る」ことができない限り、科学者の観察という行為、経験の前提を探る行為は無限に続き、決して完結させることができない。「認識の前提を認識する」ことは全体に不可能なのである。(p.34)
では哲学はどうなのだろうか。哲学もやはり他の諸科学と同様、何ものかを前提とせざるを得ないのだろうか。「経験の大前提」にたどり着くことはできないのだろうか。いや、じつはこれこそが哲学の真の目的なのである。つまり哲学とは、「自分の眼を自らの眼で見る」学問なのである。いや、少なくとも「自分の眼を自らの眼で見ようと挑戦し続けてきた」学問なのである。・・・しかし何故、哲学がこんなことを企てるかといえば、それは哲学が「前提の前提の、そのまた前提の・・・・」と、とことん物事(経験)の前提を突き詰めていく学問だからである。他の学問のさらに前提を問う学問だからである。・・・「(・・・)哲学とは、問う者自身がその問いによって巻き添えにされるような、そうした問いの総体のこと」(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』滝浦靜雄他訳)なのである。(pp.34-35)

いい感じでスパークしています。理解できますでしょうか?実におもしろい。論文も学生の論文はそこまでいきませんが、修士論文、更には博士論文となりますと、このあたりまでどんどん突っ込みが入ってくることにになりますね。本当に興味深いです。頭が、爆発しそうになってきますね。

 

哲学は認識の背後にある認識者を、なんとか認識しようと挑戦してきた学問なのである。そしてそれこそが・・・あらゆる哲学者たちがさまざまな方法論を駆使しながら探求してきたものなのだ。つまり「ア・プリオリ(先験的)なるもの」の探求である。もしくは哲学用語として頻繁に登場する「存在」というやつなのである。・・・この哲学の使命に対して明確な否定を、絶対的な不可能性を哲学者自ら唱えた人物がいる。それがウィトゲンシュタインである。・・・つまり彼は哲学がこれまでア・プリオリなるものを探求してきた学問であることを知りつつも、人間のまなざしが・・・・つまり自らの背後に何ものをも前提としない「ゼロ地点」から世界を眺めるような視野を持たぬ限り、それは永遠に不可能であり、哲学がそのような超越的な視野に立つことは絶対にありえないとしたのである。(pp.36-38)
「経験の大前提」にたどり着くためには、われわれは「自分の眼で自らの眼を見る」という難問を乗り越えなければならないからである。これこそいままで多くの哲学者たちを悩ませてきた難問である。私はこれを「認識論のパラドクス」と呼ぶ。そして哲学にはじつはもう一つ大きな難問があるのだ。それが「存在論のパラドクス」である。(p.39)

「認識論のパラドクス」については理解できました。もちろん答えなんて出すことはできませんが、問題認識はできました。さて、もう一つ「存在論のパラドクス」というのがあるそうで・・・・そちら、見ていきましょう。

古代人が考えていた「海の果ては断崖絶壁である云々」という世界像は、その時代においては世界を合理的に説明できる紛れもない一つの真理であったのだ。しかしその後の人類が獲得してきた知識と経験から、その真理はさまざまな不具合を生じてきた。その不具合を合理的に説明できる新たな法則や世界像が、次の真理の座につくのである。科学史家のトーマス・クーンは次のように語る。(p.49)

たとえば、アリストテレスの力学とか、フロジストン(燃素説)にもとづく化学とか、熱素説にもとづく熱力学を深く研究すればするほど、かつて流行した自然観が、現在のものより非科学的で人間の愚かしさの産物であるとして片付けらえるものではない、と感じるようになる。こういう時代遅れの考えを神話的と呼ぶなら、その神話は現在の科学的知識に導くものと同じ方法でつくられ、同種の存在理由をもつのである。(トーマス・クーン『科学革命の構造』中山茂訳)
ニュートンはその著『プリンシピア(自然哲学の数学的諸原理)』でつぎのように語っている。

実験哲学にあっては、現象から帰納によって推論された命題は、どのような反対の仮説によっても妨げられるべきではなく、他の現象が現れて、さらに精確にされうるか、それとも除外されねばならなくなるまで、真実のものと、あるいはきわめて真実に近いものと、みなされねばならない(規則Ⅳ)。
(ニュートン「自然哲学の数学的諸原理」河辺六男訳)

ニュートン自身も、すでに科学的真理というものがつねに時代の経験に制約された仮のものであり、将来新たなる経験と法則が現れれば真理はその座を譲らざるを得ないと考えていた。そしてまた時間や空間、質量、エネルギーといった科学の世界でよく使われる概念も、人間が考え出した、人間が自然を切り取り解釈するために都合のよい概念であって、自然の中にはもともとそのようなものは何も存在しないのである。(p.51)

ここからおもしろくなってきます。

哲学者は世界や宇宙という言葉をあまり使わず、「存在」という言葉が好きであるらしいです。しかし、この「存在」という言葉、きわめて厄介な代物なのだそうです。

哲学が扱う存在も、われわれがふだん見たり触れたりしている目の前の存在、あるいは科学が対象とする存在と同じものでもある。そこに何ら違いはない。しかし同じものであるのだが、同時にまた決定的に違うものなのだ。(p.55)

こういう話の進め方、上手ですね・・・引き込まれます。

では何が違うのかをこれから説明しようと思うのだが、じつはこの「違い」を理解することが、哲学という学問を知るうえで最も重要かつ難しい部分なのである。(p.55)
われわれ人間が今後どれだけこの存在に関する知識や経験を増やしていったとしても、われわれは存在を知ることはできないのだ。何故ならば、われわれは、「存在以外のものを全く知らない」からである。存在以外のものを知らないから、存在がそもそも何であるかをまったく知ることができないのである。深海魚が海以外のものをまったく知らないがゆえに、自らが住む世界が海であることを知ることができなかったのと同じように、われわれ人間も存在以外のものをまったく知らないがゆえに、この存在とは何か、存在するとはいったいどういうことなのかを知ることができないのである。(pp.58-59)

分かりやすく書いてくださっています。よく理解できます。さらに言い換えてくれてますので、理解が深まります。

われわれが見たり、触れたり、感じたりするものはすべて存在するものである。存在しないものを見たり、触れたり、感じたりすることは、われわれには絶対にできない。ゆえにわれわれは、存在以外のものを知ることができない。存在以外のものを知ることができないということは、まさにあの深海魚と同じように、われわれがいま目の前にしている「存在」というものがそもそも何なのかを知ることができないのである。(p.59)

存在以外のものとは、つまり『無』のことではないか?という問いに対して・・・

われわれは以下にしても「無」を手に入れることができない。無を手に入れるとは矛盾である。手に入れてしまったらそれはもはや無ではないからだ。ホンモノの無とは、語ることも思考することもできないものだからである。ゆえにわれわれは存在以外のもの、無を知ることができないから、存在とは何かを知ることも絶対にできないのである。(p.61)
認識論におけるパラドクス、すなわち「自分の眼を自らの眼で見ることはできない」というパラドクスと同じ事態なのだ。つまり「存在を知るためには『知ることのできない無』を知らなければならない」というパラドクスがここにある。これが「存在論のパラドクス」である。哲学における真理探究には、つねにこの二つのパラドクスがつきまとうのである。(p.62)

この哲学における存在というものを最初に語ったのが、2,500年以上も前の古代ギリシャの哲学者、パルメニデスである。

パルメニデスはそれまでの思惟の限界を一気に超える。パルメニデスによって人間の思惟の「質」が変わるのだ。そしてここからはじめて「哲学」という学問が誕生するといってもよい。彼の哲学を要約すれば次のようになる。

あるものはあり、ないものはない。
思惟するものはあるものである。
ないものは、言うことも考えることもできない。

これだけ読めば一見、何ということはない。ごく当たり前のことのように思える。しかし彼はここで人類史上きわめて重大かつ画期的なことを言ったのである。すなわち彼はこのときはじめて「存在の輪郭」というものをわれわれに描いて見せたのである。(p.64)

次の章から、具体的な事象について解説してくれます。死、道徳、神、戦争などです。いくつかピックアップしていきます。

死は経験の外にある。ゆえにわれわれは死に関して知ることもできなければ語ることもできないはずである。だが、実際はどうであろう。われわれ人間はいかに言葉によって経験を拡大していったところで、死を超えて経験を語ることなどできぬはずなのに、これまで人類が為してきたことはそれとはまったく正反対のことなのである。つまり、「死を超えて世界での経験を語り続けてきた」のである。・・・ご存知のように宗教にはキリスト教、イスラム教、仏教にヒンズー教などの世界的宗教をはじめ、じつにさまざまなものがあるが、それらのほとんどが死後の世界について語っているのだ。(pp.81-83)

それこそ、「ない」と分かっていても「ある」としておいたほうが都合がよいことなのかもしれません。色々な意味で・・・。

つまり人類は、この見たこともない死後の世界を構築し、そこに現実世界の王や支配者をはるかに凌駕する絶対的権力者を据えてきたのだ。そしてその絶対的権力者が定めたとされる戒律や道徳によって、人類はこれまでずっと支配されてきたのである。死からのその先は誰も経験したことがないし、誰も語ることができないはずなのに、人類が最も価値あるもの、権威あるものとして崇拝し、従ってきたものとは、この「死後の経験からの言葉」だったのである。(p.84)
デカルトは永遠に続く懐疑の懐疑、認識の無限遡行というパラドクスを解決するために、この「われ思う、ゆえにわれあり」の根拠、絶対性を死後の神に求めたのである。彼は決して、「われ思う、ゆえにわれあり」という命題のみによって、すべての懐疑を終わらせるほどの確信を得ていたわけではなかったのである。「われ思う、ゆえにわれあり」という命題には「思うものは存在する」という大前提が必要になってくるはずだが、デカルトはその根拠を結局はキリスト教の神、すなわち死後の世界の神に求めざるを得なかった。ゆえに彼にとって「われ=精神」とはあくまでも「死後の経験=霊魂」と同じものだったのである。・・・デカルトは人間的自我を目覚めさせ、近代哲学の扉を開けたものとされているが、じつはその懐疑を最後の最後まで貫くことはできず、懐疑の無間地獄を終わらせるために紙に恃まざるを得なかったのである。その物心二元論によってむしろキリスト教的世界観は強化され、また彼の自我の背後には神がしっかりと仕込まれていたのである。(p.92-93)
カントもまたその最高存在者、「世界のそとにある現実的存在」を神学、すなわち「死後の世界の神」に求めざるを得なかった。存在と無のパラドクスを、そこで解決しようとしたのである。このように人類は認識と存在のパラドクスを、実は死=宗教によって解決しようとしてきた。ゆえに哲学と宗教とは、実際には表裏ともいえるほどの深いつながりがあったのである。しかしこの死=宗教は、また人類にとってさまざまな恩恵とともに災厄をももたらしてきた。一つは道徳、一つは科学として。(p.95)
武士道による道徳とは何か。それは「自尊心」ということである。『菊と刀』という日本論を書いたルース・ベネディクトは西洋と日本の違いを、「罪の文化」と「恥の文化」の違いとした。つまり西洋においてはキリスト教によって、人間とはもともと生まれついたときから罪深い存在であり、その罪を償い死後天国へと至るためにこのようで道徳的でなければならないという考え方であった。それが罪の文化であった。しかし日本においては人間が生まれながらにして罪深い存在であるといった考え方は一切ない。そのような宗教的、彼岸的なものによる強制などではなく、道徳とは人間が本来身につけるべき当然の資質であり、それを体現していないものはこの世の中で恥ずべき人間であるとされたのである。すなわち道徳的であることの価値を自尊心に訴えたのである。これが恥の文化であり、そしてそれが武士道でもあったのだ。(pp.119-120)
そしてじつに明らかなことは、これまでの人類はこの二つの仮定を前にして、「死後も霊魂のような形でわれわれは存在し続ける」という仮定に賭けてきたということである。そしてその賭けのものとに絶対的真理を設定し、それに基づいてこれまでのあらゆる宗教や道徳を作り上げ、さらには科学を生み落してきたのである。(pp.171-172)
科学はこの2世紀の間に、すさまじい勢いで世界を席捲した。・・・もはや科学なしで現代生活は考えられぬほどその影響は甚大である。しかしその反面、これら科学がもたらした弊害というものも、これまたかつて人類が経験したことのないほど甚大なものなのだ。・・・地球上に存在する生命全体がこれほどの危機にされされたことはない。それほどこの問題は深刻な事態をもたらしているのである。しかしその理由はと言えば、化学がもともと、あの生命を超えた存在を信奉する彼岸宗教の価値原理に由来するものであるからだ。死後の世界を支配する神のような視野で、この世界にある物質や生命を細分化し微細な要素に切り分け、さらに今度は好き勝手に結合するなどして、自然や生命が本来持っていた秩序を根底から破壊してしまったからである。科学というものが、もともと「すべての経験は、われわれが生きているからこそある」という大前提とはまったく正反対のもの、すなわち「生きていることを超えた、死後もあり続ける何ものか」を大前提としてきたからである。つまりこれまで人類が死に対する二つの仮定のうち、「死んだ後もわれわれは何らかの形で経験を続けている」という仮定に賭けてきた結果が、いまや取り返しのつかない事態を引き起こそうとしているのである。(pp.176-177)

ここまで考察してきた結果、著者は新しい価値観が必要と提言しています。

たしかにこれまでの人類の歴史を振り返るとき、あの「死後にも存在がある」という仮定によって打ち立てられた宗教や思想、道徳、科学は、平和で秩序ある社会や安全で快適な生活など、さまざまな恩恵を人類にもたらしてくらた。それらは確かに人類発展のために必要かつ優れた指導原理でもあったのだ。しかしこの現代に至っては、それらの指導原理は、人間の画一化、自然や環境破壊などさまざまな災いをもたらすものと化している。ゆえにこれからの時代は、これまでに獲得したさまざまな恩恵を否定するのではなく、この恩恵を踏まえたうえで、さらに先へと進むために新しい指導原理を持つべきなのである。それはこれまでのものとは全く逆の真理、つまり、「死後にはもはや何もなく、すべての経験の大前提とは生きていることであり、あるものすべてはわれわれの生命とともに、この瞬間を生きている」という真理である。この真理に基づいてこそ、これからの思想、道徳、そして科学は創造されていくべきなのである。(pp.178-179)

おわりに・・・

これらすべての事象の背後には大きな意味の流れがある。そしてこの一見まったく関係のない事象の背後にある意味を一つに結び付け、その大いなるまなざしでもって世界を眺めることが哲学の使命であり、また醍醐味なのである。そのためには他の諸学を援用することを哲学は厭わない。何故ならば、諸学の底に流れるものを見出し、それをまた一つに結びつけるのが哲学の役割だからである。学問がますます細分化・専門化する昨今、哲学のような境界線のない学問による根源的かつ総合的な思考がこれからは重要だと思う。そのグローバルな視野は、これから人類が直面するさまざまな問題の解決のために、きっと必要となってくるはずだからである。(pp.215-216)

この本に出会えてよかったです。いろいろと悩みが少し解決して、新しい大きな悩みが出てきたようなそんな印象です。いつも言っていることですが、知らないことが多すぎますね。著者が言うように、「この一見まったく関係のない事象の背後にある意味を一つに結び付け、その大いなるまなざしでもって世界を眺める」、ある意味この結びつきはシュンペーターのいう「新結合」でしょうし、生まれるべくして生まれるイノベーションというものがあるのだと思います。

著者の三好由紀彦先生、どうもありがとうございました。是非、別の作品も読ませていただこうと思っています。

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