人工知能は敵か味方か

人工知能は敵か味方か

人工知能は敵か味方か
著者:ジョン・マルコフ

★読書前のaffirmation!
[きっかけ・経緯] サブタイトル「人間と機械の関係を決める転換点」は私の問題意識でもありますので・・・ご教示いただきたく存じます。
[目的・質問] さぁ、敵か?味方か?

まず、筆者は「人工知能」に関して二つの方向性があることを示唆しています。

情報時代の幕開けに際して、2人の研究者がそれぞれに未来のコンピュータを生みだそうとしていた。どちらもスタンフォード大学からほぼ等距離の地点に研究所をつくった。ひとりは、数学者でコンピュータ科学者のジョン・マッカーシーで、「人工知能」という言葉の生みの親だ。彼は1964年に人間の能力をまねるテクノロジーを設計し始めたが、これは10年もすれば完成するプロジェクトということだった。一方、キャンパスの反対側では、世界をよくしたいと夢見るダグラス・エンゲルバートが、コンピュータは人間の能力を拡張するもので、模倣や代替するためのものではないという考えを持っていた。彼は、少人数の知的労働者が簡単に能力を拡張して共同作業ができるようなシステムをつくり始めていた。つまり、一方の研究者は人間の存在を知的マシンで置き換えようとし、他方は人間の知能を拡張しようとしたのだ。もちろん、2人とも研究は対極的あるのと同時に、パラドックスを含んでいる。人間の知能を拡張する技術は、人間を置き換えることもできるからだ。(P.2-3)

私の研究テーマであるデータマイニングはどちらかといえば、後者よりのアプローチです。今流行の「ディープ・ラーニング」や「機械学習」も後者だと思いますが、ある意味、もともと人間がしようとしていたことを機械でやろうとしているので、まさにパラドックスでもあります。

コンピュータ化が進んだ先には悲惨さが待つという警告が増える一方で、アメリカの労働人口は増え続けている。労働統計局の同じデータを見て、アナリストたちは労働の終焉と新しい労働のルネッサンスを同時に予測する。いずれにせよ、この新しい自動化時代が社会に大きなインパクトを与えていることは明らかだ。だが、それほど明らかでないのは、テクノロジー社会がどこへ向かっているのかの真実を把握している人間がいるかどうかである。(P.6)

私の見解としては、終焉とルネッサンスが非常に早いスパンで起こってくるのではと思っています。たとえば、ある新しい職業のニーズが生まれてはそれが機械化され、またすぐに機械化できない労働集約型の労働が増えていくという循環が早いスパンで繰り返されるように思っています。また必ずや安くても機械を好まない層がいて、そちらはそちらで高価格で生き延びていくのではと考えます。(感覚的ではありますが・・・・)

新しい経済では、今日では想像もつかない仕事を生み出しているだろう。SF作家たちは当然、すでにこの部分を把握している。ジョン・バーンズの『大暴風』やチャールズ・ストロスの『アッチェレランド』を読めば、たとえロボットや人工知能(AI)が基本ニーズを満たしてくれても、われわれは楽しみ、学習し、互いを思いやるための新しい方法を見つけているということだ。答えははっきりしたくても、問いはどんどん明確になる。われわれとやりとりし、面倒を見てくれる知的マシンは、われわれの味方なのか、それともわれわれを奴隷にするのか?(P.10-11)

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グーグルとアップルというこの競合企業トップの性格を、この対照的なアプローチに見たくなる。アップルのスティーブ・ジョブズは、人間の話し言葉を理解できるようになる前からSiriの可能性を信じ、コンピュータをコントロールするには自然言語のほうが向いていると開発者の目を向けさせた。それに対してグーグルのラリー・ペイジは、コンピュータを人間的に捉えることに抵抗した。(P.30)

確かにこの比較は面白いですね。

われわれがシステムをパートナーと見なせば、システムもわれわれを人間として扱ってくれる。しかし、人間とマシンの関係性がどうなるのかという問いは、現代のコンピュータ世界ではほぼ無視されてきたのである。(P.33)

システムはシステムであって、それを人間自身がどういう立ち位置でとらえるかによって、それの見方・見え方が変わるということなのでしょうか。深いですね。

過去50年間、マッカーシーとエンゲルバートの哲学は相交わることなく、核心となる対立も未解決のままだ。一方のアプローチでは、どんどんパワフルにコンピュータのハードウェアとソフトウェアの組み合わせによって、人間を置き換える。他方は、人間の知的、経済的、社会的なリーチの範囲を、同じ材料を使って拡張しようとする。このアプローチの間に横たわる溝がこれまで取りざたされることはほとんどなかったが、いまや新しいテクノロジーの爆発的な波が現代生活のあらゆる局面に影響を与え、この溝がくっきりと浮き彫りになるだろう。(P.36)

このあと、いろいろな人工知能の使われ方について、紹介されています。そして、最後に、次のように書いて締めています。

当初パラドックスに見えたものには、簡単な答えがあった。AI対IAの生来の矛盾への回答は、さまざまなエンジニアや科学者のまさに人間的な決定に依っているということだ。彼らはみな、人間中心の設計を意図的に選んでいる。コンピュータ時代の夜明けに、ノーバート・ウィーナーは人間とその創造物―スマート・マシン―との関係性の意味について、明快な判断力を持っていた。人間がする退屈な骨折り仕事を排除する点で自動化の利点を理解したが、その同じテクノロジーが人類を服従させるのではないかと懸念した。これまでの歳月は、彼が最初に確認した二極性を精鋭化しただけだった。これはわれわれが決めることであり、人間とわれわれがどんあ世界を作り上げるのかに関係することだ。決めるのはマシンではないのだ。(P.431)

少し話がそれますが、最近機械化や自動化に関して、非常に恐ろしさを感じています。ドキュメント化、マニュアル化が企業を滅ぼすのではないかと・・・・。素晴らしい自動化ほど、知恵の集積が見えなくされている傾向になるのではと。そして、それがマニュアルにおいても、例えば、「このボタンを押して次へ進む」などとなていたら、その知恵はもう表層化されなくなってしまいます。そこって環境適応の際の一番の変数的な要素だったりすると思うのですが、それが見えなくなってしまうのです。そこに怖さを感じています。マニュアルが手順書化されていると、思考停止になってしまい、環境適応ができなくなってしまう恐れを非常に強く感じています。

というような意味でも興味深く読ませてもらえました。いずれにしも作業を機械で取り除くのはいいのですが、知恵は取り除かないようにしないと判断のできない思考停止人間が増殖してしまう恐れがあり、危惧を感じています。

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